「想定外」とは何を想定していたのか

 さる筋から、信じ難い驚くべき話を聞いた。それは、3月12日に福島第一原発の一号機が水素爆発を起こす前に、すでに現場で起こっていたことである。いや、もっと正確に言うなら、「起こっていた」ことではなく、起こるべきでありながら「起こっていなかった」ことである。
 17日には、自衛隊のヘリが三号機、四号機への放水作業を行った。ニュースによると、自衛隊は前日の16日にも放水を試みたが、現場での放射線量の数値が高かったため断念していた、ということになっている。しかし16日に放水ができなかったのは、本当に放射線量の問題か。(そもそも、バケツで水を汲んで、巨大なプールめがけて上空から水を落とす、といったやり方が功を奏すると、誰がまともに信じただろうか。)この「起こっていなかった」ことと、自衛隊による放水作業の遅れとの関係は?
 私が聞いた話は、現時点では二次情報・三次情報の類で、裏を取ることはできない。しかし、いずれは明るみに出されるべき内容だ。東電が原子力開発の名のもとにやってきたこと、そして今回の事故につながる一連の事柄は、人命を無視した重罪に値する暴挙だと感じてきたが、私の聞いた話が真実だとするなら、東電の暴挙を決定づける証拠たり得る。しかし残念ながら今はその中身まで書くことはできない。

 東電の勝俣会長は、事故後初の記者会見で初動の遅れを指摘された際、「まずさは感じなかった」と述べ、廃炉になることをおそれて、海水の注入をためらったのではないかとの質問にも「そういうことはない。自分も意思決定の場に関わっていたから確かだ」という意味の発言をしている。
 百歩譲って、勝俣会長のこの発言にウソはないとしておこう。そうだとしても、今回の大地震・大津波の規模が想定外だったということは、東電側が正式に認めていることだ。ならば、福島原発建設の際に、どの程度の災害を想定していたのか、その理由は何か、それは正当な理由による正当な想定だったのか、その想定が、設計の上でも実際の建設時にも、ボルト一本に至るまで確実に実現されたのか、その詳細に至るまで、ひとつひとつが情報開示され、検証されるべきだろう。その上で、原子力のさらなる推進なのか、それとも廃止なのかを議論すべきであるし、このプロセスを踏まずして、真の復興、真の未来構想などあり得ない。

避難所素描part2

 福島県田村郡三春町。町の名は、この時期、梅と桃と桜がいっぺんに咲くところからきている。「滝桜」の名で知られる桜の巨木は有名で、文字通り、滝が流れるように花をつける。このシーズンには、花見の客で渋滞になるほどの賑わいを見せる名所だ。
 福島原発から40キロほどのところだが、奇跡的に放射能数値が低い。会津あたりと同じぐらいだそうだ。現地の人の話では、風向きと地形的な理由ではないかという。原発と町との間に大滝根山があり、それが天然の城壁になっているのではないかとのこと。大滝根山といえば、「フクイチ」の様子を監視するために望遠レンズのカメラが頂上に据え付けられている山だ。私たちもそのカメラの映像をニュースで何度も目にしている。
 三春町はそうした立地条件から、原発に向かう自衛隊の前線基地にもなっている。と同時に、20キロ圏内、30キロ圏内からの最短の避難区域ともなっている。地元の知り合いの案内で、そのひとつの避難所(廃校になった小学校)を訪れ、ボランティアのリーダー格の人に話を伺う機会を得た。その人は、他県から単独で現場に入り、長期的に滞在しながら活動しているという。
 三春町には、飯館村や都路村といった近隣地域からの避難者が多い。飯館村といえば、福島第一原発の一号機が水素爆発を起こしたときに拡散した放射能が、当時の風向きと降雨によって集中的に降り注いで、高濃度汚染地域(いわゆる「ホットスポット」)となってしまった不運な場所だ。さらに不運なことに、飯館村や都路村はスローライフ、グリーンライフの実践モデル地区のようになっていたという。そうしたライフスタイルに共感して、定年を迎えたある老夫婦は、余生をこの地区で暮らそうと都心の住まいを売り払って引っ越した、その矢先に今回の原発事故騒ぎとなり、新築の家にたいして住まないうちに避難せざるを得なくなり、戻れるめどは立っていない。

 この避難所で驚かされるのは、ほとんどの避難者が高齢者だということ。避難の当初は若い人や子どももいたが、むしろ幼い子どもを持つ夫婦などは、いつまでも避難所には居られないということで、近くにアパートを借りたりなどして、出て行ったという。本来ならお年寄りも一緒に引っ越したいところだろうが、狭いアパートに大人数では窮屈だろうと、お年寄りは遠慮して避難所に残る例が多いという。いくら若夫婦と孫のためとはいえ、雑居状態の避難所に取り残されるのは、不安で寂しく辛いはずだ。ところが、どのお年寄りも我慢強く耐えているという。逆に感情を押し殺し、発散することもできないでいるため、高ストレス状態であることは疑いようがない。耐えきれずに、建物の裏でひっそりと泣いているお年寄りの姿もあるという。

 高齢者が中心ではあるものの、まだ元気のある中年層がいないわけではない。こちらの取材に応じてくれたその人たちの話では、一時帰宅で荷物を取りに行ったはいいが、車を規制区域の外に出そうとすると、検問に引っかかり、放射能検査を受けるとたいていの車両が規定値オーバーで、その場で没収されるという。没収された車両は廃棄処分にされるが、その処分料は自己負担だという。洗車すれば放射能検査をパスできるかと思って水で洗ってみたが、水道の水自体が汚染されているため、かえって数値が高くなってしまった、という例もあるらしい。
 仕事も奪われ、家にも帰れず、車も没収されてしまったら、動きの取りようがない。この先どうやって生きていったらいいのか・・・。皆で東電に掛け合いに行ったが、先方はただただ「申し訳ありません」と頭を下げるだけで、具体的な方策はいっさい出てこなかったという。今月末には一時金として東電から100万円、国から40万円が支給されるらしいが、たったの140万円で、どうやって生活を立て直せというのか。
 こうした事情は、この避難所だけのことではないかもしれない。ところが、ある事情通からの情報によると、同じエリアからの避難者の中には、VIP待遇とも言えるような扱いを受けている人もいるという。詳しい話は差し控えるが、そうした待遇は、たまたまというのではなく、意図的になされたという含みがある。いずれにしろ、避難者の「待遇格差」ともいうべきこの事態は、「補償格差」の問題とも相まって、今後全体的な問題へと発展しかねないだろう。

 この地区では、「SK」という公的機関が避難所や支援物資、ボランティアの活動などを仕切っているという。ところがこの組織がまるきりの「お役所仕事」のため、現場の動きが滞っていると、ボランティア・リーダーは嘆く。あるとき、緊急の容態でただちに入院治療が必要だと思われる患者が発生したため、リーダーがSKの事務所に掛け合ったが、「今忙しくて手が空かない」とか、「自分たちの管轄ではない」といった理由から、まったく動こうとしなかったという。こうした事情は日常茶飯事。リーダーがたまらず行政に嘆願書や報告書を挙げると、ようやく少し動きが改善されてきたという。
 今回の原発事故の原因も、大雑把に言えば極端な「お役所仕事」の結果とも言えるだろう。その事故の後始末をしているのも、これまた動きの鈍い「お役所仕事」ということのようだ。この国の公的システムはやはり奇態にねじくれている。その出口は、いまだに見えない。

被災地探訪(福島県相馬市)

 東北自動車道・福島西インターを降りて115号線(中村街道)を東へ向かう。この道は、よくある山里の風景が続く道だ。途中、霊山(りょうぜん)付近で休憩に寄ったドライブインでは、家族連れがアイスクリームを頬張る姿が見受けられた。当然だが、福島ナンバーの車ばかり。どこにでもある田舎の休日風景である。とても未曽有の災害が起こったとは思えない、のどかな空気が流れている。
 やがて車は相馬市の中心街に入るが、震災の爪跡はまったくと言っていいほど感じられない。ここも地方都市にはよくある風景が続く。普通に営業しているコンビニ、ファミレス、スーパー・・・。郊外型大規模店舗の間を縫うようにして住宅街が点在する。ところどころ、瓦が落ちた屋根にブルーシートがかけられている光景があるものの、それ以上の被害は見て取れない。

 ところが、国道6号線を横切り、74号線に入ったあたりから、様相は一変する。突然、未開拓の原野が目に飛び込んでくる。ここは本当に日本なのだろうか。東北の海岸沿いに、ある日突然巨大な湿地帯が出現したかのようだ。一面の瓦礫。打ち上げられて路肩に乗り上げた船・・・。
 もう少しで海岸沿いに出るだろうというところで、通行規制のバリケードに阻まれた。脇に車を停めて外に出る。時間が止まったような静寂。風だけが強く吹き抜けていく。震災からすでに50日が経つが、いまだに津波の傷跡が生々しい。しかし、住民はちらほら戻ってきているようだ。誰もがたんたんと瓦礫の片づけをしている。話しかけるのも憚られるような重い沈黙が流れる。
 片付けるために積み上げられたのだろうか、それとも津波によって自然に運ばれて溜まったのだろうか、ところどころに瓦礫がうず高く積まれていて、まるで巨大なオブジェのように見える。根こそぎ横倒しになった松の木が、破壊の凄まじさを物語っている。民家の庭先だったのだろうか、スイセンの花が咲いている。潮水に晒されたはずなのに、植物は逞しい。そういえば、阪神淡路大震災以来、スイセンは災害復興のシンボルとなった。
 おそらく自宅へ向かうのだろう、ときどき乗用車や軽トラなどが往来する。その中に混じって自衛隊の車両も行き交う。真っ先に片付けられたのは、道路の瓦礫だったのだろう。車両が通れないことには、復興は始まらない。道路は動脈だ。滞った血が流れ始めてこそ、全体が息を吹き返す。
 津波に洗いざらい持って行かれて、跡形もなくなって更地になっている脇で、無傷のまま残されている新築の家屋もある。何が明暗を分けたのだろう。国道6号線も明暗を分ける境界線になっているようだ。道の海側と内陸側ではまったく異なる風景が広がっている個所があり、一段高くなった国道が津波をくい止めた形跡が見て取れる。

 国道6号線から38号線に入り、松川浦を目指す。本来なら、半島に囲まれた穏やかな内海の松川浦だが、入り江の真ん中に取り残された車両や船舶や家屋が点在している光景は異様だ。普段なら、車両がたった一台でも海水に浸かっていたら一大事だろうが、この異様な風景も、だんだんに見慣れてしまう。
 海沿いの道を抜けて、突端近くの漁港に入る。道の両側に立ち並ぶ家屋は軒並み破壊されている。ところどころで、重機がトラックに瓦礫を積んでいる光景が目に入る。
 水産物直売センターというところで車を停める。このセンターも建屋だけが遺され、中身は瓦礫と化している。まぎれもなく、桁外れの破壊が訪れたのだと、思い知らされる。人間の無力さを嘲笑うかのように、ウミネコ座礁した船の上を舞う。センターの外壁に掛けられた時計は2時34分を指していた。そのときの実際の時刻は2時40分。時計が遅れているだけなのか。それとも3.11以来止まっているのか。地震が起きたのは確か2時46分頃。その後に津波が襲ったはずだから、この時計がそのとき止まったとしたら、計算が合わない。津波に洗われたときに、針が少し逆行したのだろうか。そしておそらく、人間の時間も少し昔に戻ったのだろう。

 人間の営みは、いとも簡単に捻り潰された。しかし、地球の歴史の中では、何度となく破壊と創造が繰り返されてきた。ここから始まる再生もきっとあるはずだ。この大いなる生まれ変わりの時に、日本丸という船はどこに向かおうとしているのだろう。

「原子力マインドコントロール」を解除する

 先日、ニュースで避難所の女性がインタビューを受けて「自分たちは原発がなかったら、全員失業していただろう」という意味のことを答えていた。私は自分の耳を疑った。
 自分の故郷に原発が誘致され、自分も含めて周りの住民がそこで働くことになり、それは割のいい仕事だったため、生活は豊かになり、家も建てて、安楽に暮していた、というのはわかる。広瀬隆氏は、それを称して「原発村の村民」と呼んだ。つまり、好むと好まざる、意識するしないに関わらず、ひとつの図式の中に組み込まれ、結果として原発から恩恵を受けて、原子力開発の片棒を担ぐことになっている人たちの総称だ。それは、電力会社を中心に、行政を巻き込む形での、一種の閉じた共同体(村社会)を形成している、というのが広瀬氏の主張だろう。
 そうした「仕組まれた」共同体意識が、「原発がなかったら、自分たちは全員路頭に迷っていた」というところまで(意識の上だけでも)行っていたとするなら、それは「世間が狭い」というレベルを通り越して、ある種のマインドコントロールのレベルまで達していると感じる。
 これだけの事故を目の当たりにすれば、たいていは真実に目覚め、幻想が崩れるはずだが、そうとう重症のようだ。

 「ダブルバインド(二重拘束)」という言葉が、ふと頭をよぎる。この概念は統合失調症の原因のひとつと目されているが、たとえば、母親が子どもに対して、口では「愛している」と言いながら、目が怒っている、といったように、実際の言語とボディランゲッジが相反する情報を発信していたり、抱きしめたかと思うと突き放す、今日は「愛している」と言いながら、明日は「お前なんか嫌いだ」と言ってみたりと、態度に一貫性がなくころころ変わる、といった場合、子どもは相反する情報のどちらを信じていいのかわからず混乱する。一度や二度ならともかく、そうした状態が日常的になってしまうと、子どもは心理的な錯乱状態に陥る、というのだ。

 さて、この「発信する情報が一貫せずころころ変わる」といった状況、どこかで聞いたことがないか。今日は「安全です」と言ったかと思うと、明日は「危険です」と言ってみたり、各自がてんでばらばらなことを言ったかと思うと、今度は情報の発信源が統合されたのはいいが、その内容が曖昧で具体性に欠けたりと、これは原発事故を受けて、今私たちがまさに経験していることだ。私たちは今、「ダブルバインド」を受けているのである。「落ち着いて冷静に対処してください。風評被害の加害者にならないでください」と言われても無理な相談だ。これも一種のマインドコントロールではないか。

 原発村の村民がマインドコントロールを受けているとしたら、それをどう解除したらいいのか。私は専門家ではないので、詳しくはわからないが、重症の場合は今後専門の治療が必要になるケースもあり得るかもしれない。
 そこまでいかなくとも、自分がどこまでコントロールされているか、セルフチェックする方法はある。心の深い部分に潜んでいる相手の本音を探り出す方法として「5Why法」というのがある。「なぜ」で始まる質問を5回繰り返す、という単純な方法だ。5回というところがミソで、それ以上でも以下でもいけない。もちろん質問の仕方でも相手の答えは変わってくるだろうが、5回目には、何となく本音が見えてきたりする。
 この5回の質問を自分に向けて発し、自分で答えてみるのだ。その場合重要なことは、自分で発した答えが、自分にとって納得できる答えかを、一回一回チェックしながら先へ進む、ということである。自分の答えが、どこかで自分を誤魔化していると感じたら、納得のいく答えが出るまで、同じ質問を繰り返してみること。

 ひとつ悪い例を示そう。

Q1:なぜ自分は「原発村」の村民になったのか?
A1:原発は危険であるとわかっていたが、金が儲かるからそうした。
Q2:なぜ危険を承知で金儲けがしたかったのか?
A2:危険の感覚が薄かったのだろうし、金が幸せを運んできてくれると信じていたからだ。
Q3:なぜ金が幸せを運んできてくれると信じたのか?
A3:それまで貧乏な暮らしだったからだ。
Q4:なぜ貧乏な暮らしだったのか?
A4:学歴がなかったからだ。
Q5:なぜ学歴がなかったのか?
A5:頭が悪かったからだ。
Q6:なぜ頭が悪かったのか?
A6:親が悪かったからだ。
Q7:なぜ親が悪かったのか?
A7:親の親が悪かったからだ。

 もうおわかりのように、この例では、自分の状況を永遠に他人のせいにしている。これでは自分で納得のいく答えは得られず、堂々巡りを繰り返すだけで、出口は見い出せない。セルフチェックしている本人も、そのことに気づいているはずだ。
 この例を、一回一回の質問に対し、自分の内面と向き合うようにして、納得のいく答えをもって先に進み、きちんと5回で完結させると、どうなるかを試してみよう。

Q1:なぜ自分は「原発村」の村民になったのか?
A1:原発は危険であるとわかっていたが、金が儲かるからそうした。
Q2:なぜ危険を承知で金儲けがしたかったのか?
A2:危険の感覚が薄かったのだろうし、金が幸せを運んできてくれると信じていたからだ。
Q3:なぜ金が幸せを運んできてくれると信じたのか?
A3:おそらくそれまでの貧しさを職業選択の言い訳にしていたからだろう。
Q4:なぜ貧しさを職業選択の言い訳にしたのか?
A4:自分の努力が足りない言い訳としてちょうどよかったからだろう。
Q5:なぜ自分で納得いくまで努力できなかったのか?
A5:・・・・。

 あえて、最後の答えは空白にしておいた。おそらくこの最後の答えには個人差があって、それこそが、あなた独自の答えであるはずだ。この5番目の質問に至って、問題の核心に触れていることが、何となくおわかりいただけるだろう。
 同じ質問で始まるセルフチェックの例を、もう二つ挙げておこう。これも、最後の答えは空白にしておく。

Q1:なぜ自分は「原発村」の村民になったのか?
A1:原発は安全であると信じたからだ。
Q2:なぜ原発は安全だと信じたのか?
A2:東電という日本を代表する大企業がそう言って保障したからだ。
Q3:なぜ自分は大企業の言うことを信じたのか?
A3:きっといい大学を出た偉い人が責任者をやっていると思ったからだ。
Q4:なぜ大企業の責任者は、いい大学を出た偉い人だと言えるのか?
A4:きっとそれは、自分の偏見だったのだろう。
Q5:なぜ自分は偏見を抱いていたのか?
A5:・・・・。

Q1:なぜ自分は「原発村」の村民になったのか?
A1:自分の周りはみんなそうだったし、他に選択の余地がなかったからだ。
Q2:なぜ他に選択の余地がなかったのか?
A2:他の選択をしたら、ここに自分の居場所がなくなるからだ。
Q3:なぜ他の選択をしたら、ここに自分の居場所がなくなるのか?
A3:きっと自分はここでなければ生きられないと思い込んでいたからだろう。
Q4:なぜ自分はここでなければ生きられないと思い込んでいたのか?
A4:自分に自信がなかったし、ここを出ることが怖かったのだろう。
Q5:なぜ自分に自信が持てず、変化を怖れていたのか?
A5:・・・・。

頑張るな、日本!!

 公共広告は、タレントやスポーツ選手を駆使して、盛んに「頑張れ、日本!!」と訴えている。そこで私はあえて言いたい。「頑張るな、日本!!」
 もちろん、今現場で頑張らなければならない人たちがいる。その人たちには、頑張ってもらわなければならないし、エールも送る。しかし、大半の日本人は、頑張る前に考えるときだ。しばし歩みを止め、なぜ、どうしてこうなったのか、これからどうしたらいいのか、どの方向へ足を向けて新たな一歩を踏み出したらいいのか、じっくりと考えるときである。特に、すべてを失って避難所暮らしをしている人たちにとっては、誰よりも内省のときのはずだ。この貴重な時間を無駄にしてはならない。

 敗戦後の復興から始まる高度経済成長の時代には、とにかく国民全員が国を立て直すのだという共通の目標に向かって、脇目もふらずにしゃにむに頑張ってきたのかもしれない。かく言う私も、そうした親の背中を眺めながら育った口である。その経済的・物質的恩恵にも浴しただろう。それは否定しないが、この高度成長は一方で、金権政治官僚主義、環境破壊、そしてバブル経済の崩壊など、抱えきれないほどの負の遺産も次の世代に遺した。
 そして、今回の原発事故である。この未曽有の事故の背景にも、まったく同じ構図が見え隠れしている。この未曽有の事態がもたらした教訓は何かと言えば、「ここでいったん立ち止まって考えろ」ということしかあり得ない。もしこの教訓を無視して、またぞろ同じ方向に足を向けて同じように「頑張る」なら、同じ結果が待っているにすぎない。今度の事態で、私たちがとるべき選択肢が、確実にひとつ減ったのだ。そのことを肝に銘じて、私たちは次なる道へ進まなければならない。

 スローライフの提唱者、辻信一氏は言う、「『頑張る』ということばは戦争を連想させる」と。国民を総動員して、ひとつの方向へ命がけで頑張らせる動き、与えられた目標に向かって「トップ」をとるべくがむしゃらに頑張る人間は称賛され、サボっている(自分の目標に向かい、自分のペースでじっくり取り組んでいる)人間は非難される、といった一種の全体主義に対して、辻氏は警告を発しているのだろう。

 「復興」の名のもとに、国民全員をひとつの方向へ向けてコントロールしようという動きは、すでに始まっている。言論統制を匂わす「ネット規制法案」は言うに及ばず、被災者支援や景気回復の大義名分のもとに消費を煽ろうとする動きも、無批判に受け入れてはならない。
 ただでさえ景気の底が見えず不況にあえいでいた日本が、カウンターパンチのように今回の震災に見舞われたわけだ。復興のために政府は桁違いの公的資金を投入しなければならないだろうし、東電のやらかした失態の尻ぬぐいのために膨大な補償もしなければならない。国民に大いに消費してもらわなければ景気は上向いてこない。震災の当初は「不要不急のものは買い控えてください」と訴えていた政府が、今度は「経済復興のためにどんどん消費してください」というわけだ。
 しかし、何をどのように消費すれば、景気が上向くのかは、誰も教えてくれない。答えは、やみくもな消費にはないからだ。私たちは、消費活動に関しても、しばし立ち止まらなければならない。金を使うな、と言っているのではない。私たちがストップをかけなければならないのは、今までの「消費のパターン」に対してである。何かに煽られるようにして、それが本当に自分や社会の幸福や平和や真の安心に寄与するのかどうかを、ろくに考えずに行ってきた消費行動のパターンそのものを見直すときなのだ。

 福島原発では今、放っておくと過熱してしまう核燃料を何とか冷やして低温安定させるべく、あの手この手の努力がなされている。これが実現するのに、何カ月もかかるようだ。これは極めて象徴的な事態である。私たちが今取り組まなければならない最優先の課題も、大量生産・大量消費的価値観に背中を押され、過熱してしまった経済行為、しかしそれは結局のところ国民の真の幸福ではなく、環境破壊やバブルの崩壊、そして今回の原発事故といった負の遺産しか生み出さなかった消費行動にストップをかけ、自分の頭の中に「低温安定」状態を作り出し、何にお金を使うべきなのかを、冷静に考えることなのだ。この機会を逃したら、反省と再出発の時は二度と訪れないだろう。

日本の復興に必要なのは価値の大転換である

 毎年六月に地元で開かれる祭りの実行委員になってくれないかと頼まれた。この震災騒ぎに巻き込まれるようにして、その祭りの中心にいた長老格の人物が亡くなられ、祭りの求心力を失ったまま、今年も開催しようということになった。そこで私にもお呼びがかかったわけだが、一参加者、祭りの盛り上げ役として今までお付き合いしていた私は、実行委員という柄ではなかったので、オブザーバーとして個人的に影でいろいろアドヴァイスすることにした。
 さっそく最初に提案したことは、女性を祭りの中心に据えること。祭りには本来、男性より女性、大人より子ども、現役よりご隠居さん、という具合に、普段は社会の中心ではなく周縁にいて影に隠れている存在を、ことさら前面に出して主役にすることによって、崩れている社会構造のバランスを象徴的に元に戻すという働きがある。ところが、祭りといえば、勇壮に神輿を担ぎ、酒を浴びるように呑み、夜通し騒ぐ、といった男性的(動的)な側面が強調されがちだったりする。
この祭りもご多聞にもれず男性性が強すぎる嫌いがあった。そこで私は、祭りの本来の役割を取り戻すためにも、実行委員に女性を積極的に動員することを提案したわけだ。その提案をすると、友人でもあり中心となる実行委員の一人でもある男性は、今までにない文化だというように、ややキョトンとして戸惑いを隠せない様子だった。

 この祭りの今年の成り行きはさて置き、祭りの本来的な役割である「中心と周縁の逆転」「一方の極に偏りすぎている社会のバランスを引き戻す」といった作業は、実はこの震災を経た今の日本にとっても、いちばん必要とされていることではないかと思う。
 先日、堺屋太一氏がテレビで言っていたが、日本の復興にとって重要な条件は、官僚制および一局集中の廃止だという。極めてまともな意見だと思う。「親方日の丸」の官僚の世界と庶民の暮らしには、今まであまりにも温度差がありすぎた。そして私もさんざん主張してきたように、何もかも東京(あるいは大都市)に集中させようという文明のあり方は、あまりにもリスクが高い。したがってこれからは、官僚中心主義ではなく、庶民中心主義であり、同時に主要都市から地方へと力点を移すべき時なのだ。

 これは以前から考えていたことだが、たとえば社会が男性優位のまま発展してしまうと、その行く末は、人命よりも経済性を重んじるというような極端な方向へと進みかねない。これがもし男性性と女性性のバランスがとれている状態、あるいはむしろ女性性が優位に立っている状態だったら、原子力エネルギーなどというような、およそ生命を脅かし危機にさらすようなものには手を出さずにこられたのではないかとさえ思う。正確なところはわからないが、原発に反対する市民運動なども、女性(特に、子どもの命を護る立場の主婦層)がしっかりと下支えしているという印象を抱く。男性のやや行き過ぎたハメのはずし方も、懐の深さで大目に見る反面、子どもの命を脅かす対象に対しては、自分の命を賭しても敢然と立ち向かうといった両面性こそが女性性(あるいは母性)の特徴でもあるだろう。

 何度も繰り返してきたことだが、重要なことなので念を押しておこう。震災前の世界と震災後の世界は、まったく違う。いや、同じであってはならない。震災前と同じ方向に足の先を向けての復興など、絶対にあり得ない。「復興」という名のもとに、震災前の価値観で日本を立て直そうとするような動き(たとえば、この期に及んで原子力開発をさらに推し進めようとするような動き)に対して、私たちは敏感に反応し、「そっちに行ってはならない。むしろ、こっちに行くべきだ」と新しい道を示す必要があるだろう。そのためにも、今までの男性優位の価値観から脱却し、むしろ女性を前面に押し出すぐらいのつもりで、崩れてしまったバランスを引き戻しておく必要がある。先の友人のように、今までにない文化だといって、キョトンとしている場合ではないのだ。今までに経験がないからこそ、試してみる価値があるのだ。そのぐらい、まったく新しい方向に進むのでない限り、日本の復興はあり得ない。そうした意味からも、日常的な価値を逆転させ、偏ってしまったバランスを本来あるべき状態に戻す働きのある「祭り」が果たす役割は、今後ますます重要になってくるだろう。

祈りの唱

蒼ざめた僕らの目の前に 巨大な焚き火が燃えている
薪のはぜる音が けたたましく木霊し
噴き上がる煙が 夜空に広がって
やがて火の粉も煙も 大気と混ざり合う
見上げれば 満天の星
誰かが言った 星とは 空に開いた穴だと
その穴の向こうは 光の世界

焚き火の火は 僕らの闇を明るく照らしたかに見える
しかし この火で 暖をとることはできない
この静けさは 祭りの後? 嵐の前?
闇を見詰め 身を震わせ 涙に濡れて
あなたの名を呼ぶ子どもたち
誰かが言った ここにひとつだけ足りないもの
それは 焚き火の向こうの あなた

怖れが闇を深くし 僕らを盲目にし
自分の足で立つ力さえ奪い取ろうとしている
誰もが答えを求めている
これ以上の問いは もういらない

目を閉じると あなたのいるべき場所に 橋がかかる
その橋の向こうには 重く閉ざされた扉がある
僕は橋を渡り 扉を叩く 何度も何度も 叩く

すべてが消え去った後に
たったひとつ残るもの
それは あなたの名前

祈りとともに 唱えられる
あなたの名前・・・