ホピの予言と日本人

 合衆国アリゾナ州北部に、アメリカ最古の先住民といわれるホピ族がいる。彼らは、優に五万年の歴史を口伝で伝承している。
 彼らが一万年前から先祖代々語り継いできた予言によると、現在のこの世界は、地上に現れた四番目の世界だという。前にあった三つの世界は、人類が創造主への感謝と汎神論の精神を忘れ、物質的欲望に取り憑かれ、世界を目茶目茶にしてしまったため、怒りを覚えた創造主たちの手により滅ぼされたという。太霊によるこの世界の浄化のたびに、汎神論の精神を決して失わなかったごく少数の忠実な者達だけが浄化を生き延び、次世界に命を繋いでいった、という。ホピ族は、そのような創造主の選民の子孫を自認しており、先祖伝来の「生命の道」を今に至るも尊守しているのである。
 今から約一万年前、彼らの祖先が第三の世界を滅ぼした大洪水を逃れ、今の第四の世界、中央アメリカの西岸に漂着したとき、彼らの守護神である太霊マサウは、第四の世界を生き抜くための教えと予言をすべて刻みつけた「石板」を彼らに手渡した。石板は二人の兄弟の間で二つに分けられ、黒い髪で肌の白い兄の方は遠く日出ずる方向に向かって旅立ち、弟がのちのホピ族の指導者となった。
 その石板に記された第四の世界に関する予言はこうである。
 やがて第四の世界も人類に邪心が蔓延することによって滅亡する時がくる。その日は「大いなる清めの日」と呼ばれる。その日に先立ち幾つもの兆候が現れる。幾つか列挙すると、
○馬以外のものが引く数珠繋ぎになった馬車を、白人が発明するだろう。
○空に道ができるだろう。
○空中にクモの巣が張り巡らされるだろう。
 長い間、これらの兆候は現れなかったが、やがて鉄道ができ、航空路ができ、電話線が張り巡らされ、そしてハイウェイが出現したとき、彼らは初めて予言の真意を読み取った。 しかし、このような兆候が現れてもホピの長老たちは声を発することなく、口を固く閉ざしていた。
 ところが、事態は一変する。1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が投下され、数十万人の命を一瞬にして奪い去ったとき、ホピ族の指導者達は、これ以上黙っていられなくなったのである。
 それは、「灰のつまったひょうたん」が、空から落ちてくる、というホピの予言が現実になった時だったからだ。このひょうたんは、とてつもない破壊力を持ち、川を煮えたぎらせ、不治の奇病を引き起こし、大地を焼き尽くし、長いこと生命を育たなくさせてしまうのだ。
 ホピの予言では、その灰の詰まったひょうたんは、母なる大地の心臓を掘り出して作られるとなっていた。彼らは、地下鉱石などを母なる大地の内臓と考えている。中でもウランは心臓に例えられる(ウランは雷を呼び、不毛の大地に雨を授けてくれるものとされている)。日本に落とされた原爆の原料となったウランは、彼らの居留地から、合衆国が、ホピの反対を押し切って掘り出したものだったのだ。
 この原爆投下によって、予言にある「大いなる清めの日」が、確実に近づいていることを悟ったホピの長老たちは、最後の兆候が現実化してしまわないうちに、ホピに伝わる「生命の道」を全人類に示し、人間本来の生き方に戻るよう呼びかけることを決定し、国連に特使を派遣したのである。
 ホピの予言では、この大粛清が起きる最後の前兆は、白人が「空の家」を天に置く時だという。そのとき、母なる地球は人類の浄化に入る。空の家は、人類に許された最後の創造物であり、その完成前に人類が生き方を変え始めなければ、ほんのわずかな人間を残して、第四の世界は淘汰されるという。
 現在宇宙では、国際宇宙ステーションが建設されている。完成は2011年秋になるという。
 さらに、大いなる清めの日が近づいたときに「失われた白き兄」が欠けた石板を持って戻り、世界を邪悪から清め、平和に導き入れる、という予言もある。
 ホピの予言について著作活動をしているフランク・ウォーターズによれば「白き兄とともに二人の従者が到来する。一人はまんじと十字のマークを持ち、もう一人は太陽の印を持っている。この3人が世界に大変動をもたらし、生命の道を固守し続けたわずかな数のホピ族の生き残りとともに新しい平和な世界を現出させる。だが、この3人が使命を全うできない場合には、太霊は西から『ある者』を興す。それは非常に多くの冷酷な民である。彼は大地を破壊し、地上に生き残るのは蟻だけとなる」 という。
 予言の解釈には諸説あるが、何人かの解釈者は、まんじとはドイツ(ナチスは逆まんじをシンボルにした)のことであり、太陽の印は日本(日の丸の旗から)のことだと確信している。十字の印はカトリックの総本山があるイタリア(ヴァチカン)ということになるのだろうか?
 もしこの解釈が正しければ、先の大戦被爆国となり、いわば世界平和を実現する役目を担った日本は、かつての同盟国であるイタリアとドイツとともにホピ族とよい協力関係を持ち、人類のために貢献しなければならない重大な使命を担っていることになるのだろう。
 ならば、日本とドイツとイタリアが世界にもたらす大変動とは何だろう。今回、日本は「自爆」というかたちで三度目の被爆を経験した。その影響は、全世界に及ぼうとしている。私たち日本人が、世界平和や地球環境保護などに対して、大きな使命を担っているとするなら、この三度の被爆経験を決して無駄にしてはならない。「私たちの経験(犠牲)を、決して無駄にしないでください」と世界に呼びかける権利と義務の両方を有するだろう。
 日本がこうした使命を全うできない場合に、西から勃興する非常に多くの冷酷な民とは何だろう。今、日本は徹底的に打ちのめされていることは確かだ。その弱みにつけ込もうとする動きは、きっとあるに違いない。私たちはそれにどう向き合えばいいのだろうか。これは、人類全体の未来を左右する重要な態度決定だ。


 この絵は、ホピの聖地オライビ近くの岩に描かれた有名な「ロードプラン」である。左下の人物は、太霊マサウを表す。右手にはたいまつ、左手には、数千年前、ホピが地上に出るのに通った「アシ」を握っている。アシの右に見える円は第四の周期を示している。長方形は地上世界への脱出口「シパプ」で、そこから伸びる上の線は、多くの人が従う物質的な道を示す。手をつないでいるのは、彼らが物質的な生き方で結束していることを表し、波線の示す「混沌」がその結末である。ホピが従うように命じられている道が、下線に示されている。それは伝統派の歩む狭い道で、トウモロコシ畑に立つ長老で終わっている。彼は、伝統に忠実な者たちに約束されている平和と繁栄の象徴だ。
 この線沿いに、三つの円と縦線が見える。三つの円は予言された世界大戦で、最初の二つはすでに終わり、最後の一つはまだ来ていない。最初の二つの円に続いて、上下の線を結ぶ縦線がある。それは誘惑にはまって進歩派になり、古来の信仰を捨てる人々の離反を予言している。それが三つ目の円の前に来ていることに注目したい。
 さらに、物質的な生き方の果てに訪れる「混沌」(波線で示される道)は、長老の頭をかすめるように終っている。これも、人類に待ち受ける未来を象徴しているのだろうか。

放射能被害は「科学的判断」ではなく「政治的判断」の問題である

■私たちは究極の選択に迫られている
 この時期、放射能汚染で強制避難区域や避難勧奨区域となっているエリアの住民の方々はもとより、そうでなくとも、決して低い線量とは言えない微妙な区域(たとえばホットスポットのような)にお住まいの方々、特に小さなお子さんをお持ちのお母さん方は、さぞかし不安で胃の痛むような日々を過ごしていることだろう。私の居住区域は福島ではないが、隣接する自治体で、やはりホットスポットが点在する正真正銘の汚染地域となってしまった。
 「ここに留まって大丈夫なのか、それともさっさと避難すべきなのか」今私たちは究極の選択に迫られている。私たちの脳裡をかすめるものは、たとえば次のようなものだろう。

放射能は微量でも危険か、それとも微量ならむしろ健康によいのか?
○年間20mSVという「引き上げられた暫定基準値」は妥当か、それとも不当か?
○年間1mSVという、もともとの基準値ならば、納得がいくか?
放射能があくまで「毒」ならば、「薄められた毒」は安全か、それとも危険か?
○そもそもどの程度「薄め」れば、「安全な毒」と言えるのか?

これらはどれも、純粋に科学的な命題のように思える。しかし、現在の科学(たとえば放射線学)は、これらの命題に明確な解答をもたらしてくれているだろうか? 私たちの不安や迷いを解消するのに十分な確証を与えてくれているだろうか? 私たちの疑問は、さらにこう続くのではないか。

○同じ専門家でも、どうして北極と南極ほどにも極端に見解が食い違っているのか?
○特に、内部被爆のことになると、見解の差は歴然とするように感じるが、それはなぜなのか?
放射能の影響は、あまりにも個人差が大きいというが、ならばいったい何のための基準値や統計や確率なのか?

 「なぜ?」「真相は?」という疑問が相変わらず宙に浮いたままだ。私たちはすべてが未消化のまま、疑念も不安も迷いもいっこうに解消されない。「まあ、答えの出ない疑問は多々あるけれど、それはとりあえず置いておいて、とにかく前向きに元気出して行きましょう」というわけにいくだろうか。これは一見ポジティブな態度に見えて、実は何の判断にも態度決定にもなっていない。これは一種の思考停止にほかならない。ある種の思考の落とし穴にはまっているのだ。

■今私たちに必要なのは科学的知識ではなく「危機管理能力」
 実際の話、原子力放射能の分野ほど、専門家によって見解が極端に分かれる分野もないだろう。もちろんそれにはそれなりの理由がある。たとえば、研究対象が目視のきかないミクロの世界であるということ。そのくせ、強大なパワーを相手にすることとなり、それだけ危険を伴い、充分な実験を積み重ねたくても、膨大な設備を要したり、それだけコストがかかってしまったり、リスクが大きすぎたりと、なかなか一筋縄ではいかないやっかいな対象を相手にするということ。たとえば、コストやリスクを抑えるために小さな実験室で、規模を極小化した形で実験を繰り返したとしても、それを極大化した場合に同じ現象として現れるかどうかは、簡単に敷衍することができないということ(※)。したがって、研究対象のすべてが科学的に立証されているわけではないということ。しかも、同じ対象でありながら、物理学的見地、生物学的見地、医学的見地という具合に、科学的アプローチの仕方が多岐にわたっているということ。
 他にもいろいろあるだろうが、全てをあげつらうことは、ここではあまり意味がないので、このくらいにしておく。

※蛇足ながら、原子力に関する極端に極大化した形での実験は、アメリカやロシア(当時のソ連)をはじめとする欧米諸国がさんざんやってきた原水爆実験であることは言うまでもないが、これはもちろん軍事目的であり、実験結果として様々なデータがとられているはずだが、極秘事項として表には出てこない。まったく公表されていないわけではないだろうが、軍事的事項の性質上、どれだけ純粋に科学的信憑性があるかは、極めて疑わしい。極端なバイアスがかかっていると見るべきだろう。そんなものを判断材料にはできない。

 いずれにしろ、重要な点は、私たちは専門家のこうした研究にいちいち付き合ってはいられないということだ。そんな暇に放射能はどんどん垂れ流されているわけで、さっさと判断を下して行動しなくてはいけないのだ。ひところの映画のセリフを借りるなら、「事件は現場で起こっているんだ。研究室の中で起こっているんじゃない!!」というわけである。
 どんなにその分野の科学的情報を集めても、どんなにその分野の専門家の話を聞いても、決定的な判断材料が手に入らないなら、私たちがとるべき態度はただ一つ、その手の科学的判断を手放す、ということだ。こと原子力放射能の分野に限って言えば、自然科学的判断に結論を求めても答えは出ないだろう。となれば、人文科学を持ってくるしかない。
 実験室の中にいる研究者ではなく、生活空間で実際に放射能被害に遭っている一般の私たちにとって、これは物理学や医学の問題ではなく、むしろ「危機管理」の問題なのだ。普段、普通に生活している私たちにとって、危機管理などほとんど無縁な世界だろうし、専門的な勉強などしようはずもないだろうが、実は今もっとも求められているのはこれなのだ。
 もちろん私は危機管理の専門家でも何でもないが、それでもちょっと考えればわかる程度の、基本的なものの考え方、状況判断の仕方ぐらいは挙げることができる。それをここで試みよう。

放射能をプロファイリングする
 危機管理の第一歩は、そもそも自分がどのような対象を相手にするのか、その相手の性格や特徴をできる限り的確に把握することである。いわばこれは、犯罪捜査におけるプロファイリングの手法といってもいいだろう。もちろん私たちが相手にするのは「放射能」である。
 今回、地震津波原発事故と、立て続けに3つの惨事に見舞われたことは、このプロファイリング作業にとっても、ある意味非常に象徴的だったといえる。過去の例でもそうだが、今回もまず、地震による揺れよりも、津波の被害の方が圧倒的に壊滅的だった。この津波の破壊力は、放射能被害をプロファイリングする上で、ちょうどよい比較対象になり得るだろう。以下、津波放射能に関する性格比較を列挙してみよう。

津波は目視できる(危険が認識しやすい)、放射能は感知できない(危険が認識しづらい)。
津波は瞬時に危険を察知できるが、放射能はすぐには影響が判断できない可能性が大きい。したがって、津波に対する対処は単にスピード勝負だが、放射能に対する対処はだらだらと長引く傾向にあり、危機感も時間とともに薄まりがちになる。しかしその裏で被害は確実に広がる傾向にあるため、対処が後手後手に回る嫌いがあり、気づいたときには手遅れになりがちである。
津波は対処法が単純でハッキリしている(人によって見解が異ならない=即刻逃げるしかない)が、放射能は専門家の間でも対処法が極端に異なる(一般人は判断に迷う)。
津波は全人類的に何度も経験していて慣れている(はずだ)が、放射能に関しては全人類的にあまりにも未知の領域すぎる。(あるいは、情報があっても、軍事的・政治的意図によって隠されている)
津波は被害範囲や規模がある程度限定できるが、放射能は被害の及ぶ範囲や規模を正確に予測するのも限定するのも困難(実質的には不可能)。しかも遺伝子が傷つくことによって、被害が一代で終わらない可能性もある。

 こうして比べてみるとはっきりすることは、やはり放射能は極めてやっかいで、ひとたび事故が起きて暴れ出したらほとんど制御不能ということだ。
 ただ、津波放射能に共通して言えるのは、どちらもその場に踏みとどまって立ち向かおうとしても無駄だということだろう。放射能に関しては、被害現場にとどまって、ある程度民間レベルの自衛手段をとることもできるだろうが、効果のほどは極めて疑わしい。どれほど最先端の自衛手段をもってきたとしても、まだまだ研究途上の分野であることに変わりはない。
 もうひとつ、津波の危機が迫るスピードと放射能汚染の危機が迫るスピードの違いについて、気になることがある。チェルノブイリ事故のときは突発的な爆発事故だったため、危機の迫り方はかなり津波に近いスピード感だったと言えるかもしれない。その点今回の福島第一原発事故の場合は、かなりだらだらと長引かされたスピード感だと言える。ところが、津波も今回の原発事故も、人が一瞬判断に迷い、とんちんかんな行動に出てしまうだけの「遅さ」を持っていた、という点では共通しているかもしれない。実際、津波のときにも、いったん避難しかけたが、まだ間に合うだろうと判断して、貴重品をとりに急いで家に引き返して波にのまれてしまった犠牲者がかなりいたようだ。放射能の危機についても、同様のことが起こりかけているのではないかと、私は個人的に危惧している。

 津波のときには「危険です、少しでも高いところへ直ちに避難してください」とスピーカーで警告し続け、結局波にのまれて死んだ消防署の女性署員がいた。もちろん彼女は津波の専門家ではなかったろうし、人心を惑わすために叫び続けたと思う人間はいないだろう。そしてもちろんその時の彼女は、避難した後の住民の生活のことなど、念頭にあったとは思えない。今、放射能に関して同じことをしている人間がいる。「放射能はたとえ少量でも危険です。少しでも線量の低いところへ直ちに避難してください」という具合だ。この警告に素直に従うも人もいるだろうし、住民の不安をいたずらに扇っていると解釈して、耳をふさぐ人もいるだろう。
 どう考えても、これは警告を発している側の問題ではなく、受け取り手の問題であり、放射能という極めて特殊な対象と向き合ったときに、私たち一般の人間がどのような反応を示すかという問題だろう。

■数字は巧妙にウソをつく
 目に見えない、匂いも味もない、物理的な重さも感じられないという放射能を相手にする場合、頼りになるのは計測値であったり、統計や確率などの数値データであったりと思いがちだが、数値ほどバイアスをかけやすい情報はない。しかも数値データは世に大量に溢れている。氾濫する大量のノイズの中から当てになる数値データを探り当てることは、砂漠の砂の中から一粒の砂金をより分けるようなものかもしれない。だから、数値はほんの参考程度と思った方がいい。
 数字は巧妙にウソをつく。真実だと信じ込んでいた数値が、簡単に覆されてしまうことなど、よくあることである。しかも、あらゆる情報が乱れ飛んでいる現状では、ひとつの情報が提示された瞬間に、まったく正反対の情報が提示されるといったことが日常化しているだろう。
 どれほど大量の統計的データを持ってこられても、パーセンテージを表す計算式を示されても、それで自分の子どもが将来ガンになるかならないかの決定的な判断材料にはなり得ない。決定的な判断材料にならないからには、それらの数値を最終的な判断基準にすることなどできようはずもない。
 米国ジョージ・メイソン大学の物理学教授ロバート・アーリックは、その著書「トンデモ科学の見破りかた」(草思社)の中で、次のように述べている。

「19世紀の英国の首相で小説家でもあったベンジャミン・ディズレーリによれば、『世の中には三種類のウソがある。すなわちふつうのウソ。真っ赤なウソ、そして統計である』。まるっきり誤った理論を裏づけるために統計的な主張がなされることはよくある。そうなる理由は、意図的な偽証、無意識的な偏見、統計の適切な使い方を知らない、のいずれかである。こうした統計の誤用をたえず監視しておく必要がある。おそらくこれが、間違ったトンデモない考えを見分ける最も確実な方法である。」

 私は個人的に、統計や確率の裏には、情報の発信者が意識するしないに関わらず、ほぼ間違いなく政治的意図が隠れていると見ている。少なくとも、その数値データを何らかの論拠に役立てようとする者には政治的意図がある。したがって、数値を信じるにしろ無視するにしろ、肝心なのは隠れている意図を読み取ることである。
 数値に振り回されるのも、数値の上にあぐらをかくのも、ともに危険である。数値とは、思考停止のちょうどいい言い訳になりやすい。私たちに今問われているのは、科学的判断ではなく危機管理能力であることはすでに述べた。危機管理の基盤に数値を置くなら、信じていた数値に裏切られる危険性も覚悟しなければならない。

 統計や確率による論証の裏にある隠された意図、情報操作といった問題は非常に重要で、戦後の日本が原子力開発に拍車をかけてきた根本的理由に抵触する部分でもあるので、また機会を改めて詳しく取り上げたい。ここでは、数値データに対する警告のレベルにとどめておく。

■科学者の「政治的判断」
 私たちの思惑とは裏腹に、専門家は数値的データを論拠の基盤において持論を展開したがる。特に、諸学者の間であまりにもかけ離れた両極端な学説が拮抗しているようにも思える原子力放射能の分野では、論拠として提出される数値も極端に異なるように感じる。
 たとえば、「年間被曝量が20mSV以下なら安全だ」という専門家と「とんでもない、年間1mSVだって避けるべきだ」という専門家と、どちらを信じるべきか、という判断があったとしよう。
 そこで、本来純粋に客観的な科学的立場に立とうとするなら、両方の専門的見解があることを踏まえた上で、判断は受け取り手に委ねるべきなのだ。実際、「年間20mSVまでは安全である」という論拠を探しても、「1mSVだって危険である」という論拠を探しても、どちらも等分に見つかるだろう。したがって、「科学の誠意」を問うならば、「どちらとも言える」あるいは「わからない」というのが、より誠実な答えのはずだ。それ以上の判断を求められたら、「これは科学でも何でもなく、純粋に個人的な見解だが、」という前置きつきで答えるべきだ。
 したがって、「どこそこは、将来はわからないが、今すぐには危険はない」という科学者も、「危険だから今すぐ避難すべき」という科学者も、どちらも科学的判断を通り越して政治的判断に近づいていると見なした方がよい。もちろん科学者が政治的判断を下してはいけないというわけではない。むしろ今は、専門的立場から一歩踏み込んだ議論が必要だ。問題は、その専門家がどのような政治的立場に立っているかである。そしてその政治的立場に、あなた自身が賛同できるか否かが、判断の分かれ目になる。これは明らかに自然科学の問題ではない。
 なかには自身の政治的立場を比較的明確にしている専門家もいる。一方、特定の利害がからんだ政治判断をしている専門家なら、本人に問い正したところで、そう簡単に本音を言うはずもない。それぞれの立場はなかなか複雑で単純に言うことはできないが、少なくとも、その人物が政治的弱者の立場に立っているか、それとも強者(権力者、支配者)の立場に立っているか、という判断ぐらいはしておく必要がある。もちろん、政治的な立場を乗り越えて、純粋に科学者として中立な立場で発言する人もいるだろう。しかし、そういう人がどのような答えになるかは、すでに指摘した。

 先に引用したロバート・アーリック博士は同掲書の中で、次のように述べている。

「科学のある種の領域は政治から遠くかけ離れているが、そうではない領域もある。とりわけ環境や人間の健康といった領域では、提案者の政治的な偏向が、賛否両論のある考えにどこまで正直に対処するかを大きく左右することがある。そういう場合、研究者の研究費の資金源がどこにあるかが、政治的な偏向の重要な手がかりを与えてくれるかもしれない。」

 まさに放射能被害は、環境被害であり健康被害である。さてそこで、政治的強者(つまり日本政府)の政治的判断は、被害者への補償をなるべく最小限にとどめる目的で、被害範囲や規制範囲をなるべく狭く見積もっておきたいという方向に働く。したがって政治的強者の立場に立つ学者は、汚染許容数値の閾値をなるべく弛めに設定したいという方向に傾く。年間1mSVからいきなり20mSVに引き上げたのは、そのような政治的意図があったと見るべきだが、政治的弱者がそれに異議を申し立てた場合、政治的強者はそれを聞き入れて閾値をきつめに戻すという方向ではなく、逆により緩やかな値でも安全なのだという情報を流すことによって(あるいはそういう情報に便乗するようにして)、20mSVという値を受け入れさせようという方向に働くだろう。たとえば、先ごろ来日して会見を行ったロシアのアルチュニャン博士は、年間20mSVという引き上げられた暫定基準値について、次のように述べている。
 「最初の1年で累積される放射線量が20ミリシーベルト以上であれば避難対象となるという基準が発表されています。この基準レベルは、国際的な勧告および科学的なデータにもとづき、50ミリシーベルト、もしくは、100ミリシーベルトという数値に設定しても問題にはなりません。100ミリシーベルト以上の地域に絞って避難対象としても問題ありませんし、まったく安全な数値です。」
http://news.livedoor.com/article/detail/5699797/?p=1
 私たち素人は、この発言の科学的信憑性など確認しようがない。唯一判断できるのは、博士がどのような政治的立場に立っているか、ということだけだ。これは、ある毒の危険性を過小評価する意図があるときに、その毒の20g溶液が安全なレベルかどうかという議論に対して、50g溶液であっても100g溶液であっても問題なく安全なレベルであると言って、「ああ、そんなに濃くても安全なのだから、20なんて、本当に大したことないんだ」と思わせる手口である。年間20mSVまでとする学者と、50でも100でも大丈夫だとする学者と、政治的弱者への統制度がどれだけ違うかは明らかだ。これは単純に日本とロシアの政治的統制度の違いを反映しているのかもしれない。このロシアの科学者が、誰に旅費を出してもらったか、あるいは純粋にプライベートで来日したかに関係なく、政治的な立場としては、強い統制度で、結果として日本政府の政治的意図に貢献していることには違いないのだ。

■とにかく選択肢を増やすべし
 さて、私たちは以上のようなことを踏まえて自分の意思決定をする必要があるだろう。その意思決定こそが、私たちの政治的判断(あるいは決断)なのだ。判断し、決断したことには、もちろん運命を共にする(あるいはあなたの決断に何らかの影響を受けるであろう)人間に対する責任が生じる。その判断がもし将来間違っていたと判明したとき、その影響に対する責任は問われて当然だ。責任がとれるかとれないかは、また別の問題だが、問責を免れる言い訳は何ひとつない。
 その場合、何の利害もない一個人として気をつけなければならないことは、自分が真に公正な立場で判断しようとしているか、それとも、特定の立場の論拠にだけ注目して、その反対の立場の論拠にはあえて目をつぶろうとしているか、ということだろう。あなたが後者なら、自分が偏向している側の論拠に因ろうとしている科学者の(隠された)政治的立場に(好むと好まざるとに関わらず)与することにもなりかねない。あなたが意図してそうするなら、それは立派な政治行為だし、意図せずとも結果的にそうするなら、それは「無作為の加害者」となってしまうことにもなりかねない。

 結局のところ、人間は自分の見たいものしか目に入らないし、聞きたいことしか耳に入らない。自分にとって心地よいと感じるものしか受け入れようとしない。目も耳も、心の窓でしかないのだ。しかし、本当に必要なものは、えてして自分があえて目をそむけている部分にこそあったりする。
 したがって、危機管理の基本セオリーとして次に挙げておかなければならないのは、ある究極の決断を求められたとき、それを実現する選択肢を可能な限り増やすということである。もっともリスキーなのは、選択肢がひとつしかない、ということだ。ある意味、もっと危険なことは、選択肢がひとつしかないと“思い込む”ことである。「これしかない!」と思った瞬間から、人間は思考停止になる。思考停止になることが、もっとも危険である。思考停止状態の人間ほど他人にコントロールされやすい存在はない。そもそも、マインドコントロールの最初の手口は、人を思考停止状態にすることにほかならない。思考停止状態ほど危険なリスクはない。このリスクから逃れる術は、考え続けることしかない。
 次にリスキーなのは、究極の二者択一を迫られるということである。この場合も、真っ先に考えるべきことは、本当に選択肢は二つしかないのか、三つ目以降の選択肢はないのか、を必死になって考えるということである。ここでも、考えることを止めないことが重要である。
 このようにして、選択肢をなるべく沢山持つことが、リスク回避の第一歩となる。できれば最低でも10個の選択肢を、何が何でも捻り出して検討の俎上に載せることをお勧めする。実は、選択肢を二桁の大台に乗せることには重要な意味がある。最後の方で、絞るように捻り出した選択肢ほど、最終ゴールに近かったりする。なぜなら、知恵を絞れば絞るほど、自分で自分にはめていた心の枷がゆるむからだ。
 さて、次にやるべきことは、用意したそれぞれの選択肢の利点・欠点(実際にそれを選んだ場合の問題点)を列挙することである。そしてそれらをつぶさに検討し、利点と欠点を秤にかけ、絞り込んでいく。いわば、「柔軟な発想力でアイデアを出し、厳密な分析力でふるいにかける」といったところだろう。

 こうした過程の中で、おそらくあなたは二つのことに思い当るに違いない。
まずひとつは、取捨選択のプロセスにおいて、人生の選択を迫られたときの、今までの自分の選択パターンを省みることになるということだ。
 人生は一瞬一瞬が選択である。そのいちいちで自分が何を選択したかでその後の運命は変わる。人間にはだいたいにおいてそういう場合の選択パターン(選択の傾向)というものがある。たとえば、人生の分かれ道にさしかかったとき、ルートAを選ぶかルートBを選ぶかには、ある種の傾向がある。問題を単純化するために、ルートAをより現状維持的(保守的)な道、ルートBをより冒険的(革新的)な道としよう。Aを選ぶAさんは、だいたいにおいてどんな場合でもA(あるいはよりAに近いもの)を選ぶ。Bさんの場合も同様だろう。この選択の傾向が、その後の二人の人生をどのように変えて行くかは、想像に難くない。
 この選択パターンは、「ここにとどまるべきか、それとも逃げるべきか」といった判断にも大きく影響してくるだろう。そこで考えるべきことは、自分の選択パターンが、本来自分に備わっているものか、それとも誰かに押しつけられたものか、ということだ。特に現状のように、皆が共通の拠り所を失い、新しい規範が求められているようなときには、個人も新しい選択のパターンを獲得する必要があるかもしれない。
 もうひとつは、上記にも関連するが、今までさまざまな形ですり込まれてきたであろうマインドコントロールに思い至り、それがおそらく少しずつ解けてくるのを実感するだろうということである。
 私たちが今まで、親や周りの人間から、教育から、社会(常識や通念)から、政治(国)から、専門家から、あるいは時代から、どのようなマインドコントロールを受けてきたのか、そしてそれをどのように解除したらよいのか、という問題は大きな問題なので、また改めて取り上げたい。

■二つの「政治的決断」の後にやってくるもの
 もう少し具体的に見て行く必要があるだろう。考えられるすべての選択肢を取り上げて検討することはできないので、問題を絞り、代表的な二つの選択肢を挙げて、それを選択した場合にどのような結果になっていくかを、一種の思考実験(シミュレーション)として見てみよう。したがってここでは、便宜上最悪の場合を想定してみる。あなたがギリギリであれ何であれ、どこかのタイミングで最悪の結果を逃れられるなら、それで結果オーライなのだから。おそらくあなたが下すことになる決断は、この二つのシナリオの間のどこかにあるだろう。
 なお、ここでは、福島第一原発から微妙な距離にあり、とどまっても大丈夫なのか、それとも即刻避難すべきなのか迷う地域の総称という意味で、あえて「福島」ではなく「Fukushima」と便宜上表記しておく。

<シナリオ1>
あなたが、あくまでFukushimaに留まったとする。留まったら留まったなりに、子どもの健康管理には十分注意したが、仮に20年後、不幸にも一緒に留まった子どもがガンにかかってしまったとする。発病の原因は、Fukushimaに留まったことしか考えられない。そこで子どもはあなたの当時の「政治的決断」の是非を問うたとする。それに対してあなたは、判断責任を全面的に当時の日本政府に押し付けることもできる。そのとき子どもの目に映るものは、責任を他人に押し付けて言い逃れをしている親の姿である。ただそれだけだ。一方、もちろんまず最初に謝罪があってもいいわけだ。もし仮に、子どもが健気にも「お母さんのせいじゃないよ」と言ったとしても、あなたは自責の念を免れるだろうか? ここでもしあなたが「子どもはあくまで親と運命共同体であり、親の決断に従うのは当然だ」とばかり謝罪を拒否するなら、あなたは同じことを今、日本政府に言われても(「国民はあくまで国と運命共同体であり、国の決定に従うのは当然だ」という具合に)、文句は言えないことになる。そこでもし子どもに釈明を求められ、避難しなかった理由として、避難した先での新たなストレスや、家族がバラバラになるリスク、一家の大黒柱が職を失い、生活できなくなるリスクなどを挙げ、結果として政府や学者の「安全だ」という言葉を信じたのだと言うとする。どう言い訳しようが、結局のところあなたは、現状維持による安定・安心感と子どもの健康リスクとをハカリにかけ、現状維持を優先させたことになる。「結果責任」をどうとるかは、それからの子どもとの話し合い如何だろう。

<シナリオ2>
あなたは、早々にFukushimaから避難したとする。とりあえず子どもだけを避難させるか、あるいは夫だけを遺して、自分と子どもだけで避難するか、それとも家族全員で避難するか、いずれにしても大きな生活の変化と、それに伴うストレスやリスクを免れない。あなたは、それらを極力回避するため、最大限の努力をしたが、不幸にもストレスによる免疫力低下によって子どもが何らかの病気にかかってしまい、Fukushimaに戻りたいと訴えたとする。しかしもはや戻ることは物理的にできない。あなたはそこで、無理してFukushimaを離れたことを後悔するかもしれない。しかしあなたは子どもを何とかなだめて、病気から回復させるため最大限の努力を払うしかない。そうせざるを得ないだろう。つまり、避難先での再スタートがたとえどん底からのスタートだったとしても、少なくとも努力によって上向きにすることはできると信じることはできる。信じることしかできない。仮に20年後、そうした努力も虚しく、不幸にも子どもがガンにかかってしまったとする。そこで子どもは「どうせこうなるなら、Fukushimaに留まればよかった」と言うだろうか? それとも「お母さんは最大限努力してくれた。自分が病気になったのは、お母さんのせいじゃない」と言うだろうか? どう言われようが、あなたは現状を上向きにするための努力を止めるだろうか? 何が起ころうが、あなたのとるべき態度は「自分を信じて努力する」ということだけのはずだ。

 さて、こうしてシミュレーションしてみると、<シナリオ1>を選んだ人は、どちらかといえば放射能ではなく「変化」を怖れていることがわかる。そして、本来自分が下すべき政治的判断を他人の手に委ねている傾向が見て取れる。しかしどれほど他人の手に委ねようが、最終的に責任をとるのは自分である。責任を長引かせることはできても免れることはできない。
 一方、<シナリオ2>を選んだ人は、純粋に放射能のリスク回避を重んじていることがわかる。そして、「自分の人生はあくまで自己責任」という態度が見て取れる。そこにはいかなる申し開きも後悔も無用だろう。
 しかし、お断りしておくが、これらはあくまで最悪のパターンを想定したシミュレーションであり、最悪のことが起こらなければ、それに越したことはないし、これらのシミュレーションは意味をなさない。しかし、最悪のことが起こらないという保証が何もない以上、考えておく必要はある。繰り返すが、いちばんリスキーなのは、思考を停止してしまうことである。

 すべての政治的弱者の上に幸運を!!

今こそ「SOS from Fukushima」を発信すべし!!

■「Appeal for Fukushima」で国連を動かす?
 「Appeal for Fukushima」というサイトがある。→
http://www.appealforfukushima.com/ja/

 フランスのCecile Monnier(セシール・モニエ?)なる人物が管理運営しているようだが、このサイトで、以下のような趣旨において世界中から署名を集めている。


『世界人権宣言では以下のように述べています :

第1条: すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない.
第3条: すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する.

これを考慮し、日本の人民とその他の世界を危険に晒している福島第一原子力発電所の現状を踏まえ、また、東京電力と日本政府がこの状況を管理する能力に欠けていることに鑑みて,

地球の住民たる我々は、国際連合(UN)、世界保健機関(WHO)、およびすべての国際機関と政府に対し、つぎのことを懇願します :
1. 国連の委任により、福島第一原子力発電所とその事故の帰結の管理を引き継ぐ国際的・学際的チームを確立すること.

2. 日本の人々を守るために、どんなコストも辞さずにあらゆる手段を講じる責任を持つ対策チームを国連内に設置すること.

我々は、生まれながらにして自由かつ平等である人間であり、理性と良識に基づき、同胞の精神をもって行動します。我々は、日本の同胞たちと我々のこどもたちの命、自由、および安全を心配しています. 』


 このサイトに署名するか否かはさておき、このようなサイトの出現を受けて感じることが二つある。
 ひとつは、これは本来なら私たち日本人(あるいは福島県民を中心とする被災者)が世界に向けて発信し嘆願すべきことではないか、ということだ。つまり、本来なら私たちがとっくの昔にやっておくべきことを、私たちがあまりにも後手後手に回っているために、業を煮やして代わりにやってくれている、ということだ。
 もうひとつは、私たち日本人の視線だけでなく、国際社会の目からも、日本政府や東電の頼りなさが明白ならば、国連その他の既存の国際機関ではないにしろ、日本政府や東電ではない第三者機関(事態収束のためだけに暫定的に立ち上げられた機関でも何でもいい)に原発事故の収束を任せるべき時がきているのかもしれない、ということだ。

■国際的な「ブラッドシフト」を!!
 おそらく、諸外国、特にこの原発事故で、実際に放射能被害を被っている諸外国(すでに、アメリカ西海岸でも大気中からプルトニウム微粒子が発見されているらしい※)からは、なぜ当事者である日本人は黙って大人しく政府や東電の言うことを聞いているのか、なぜ自ら声を挙げることもなく、ただ当局の言いなりになっているのか、いくらなんでも従順すぎるだろう、と映っているかもしれない。フランスの一個人であれ何であれ、日本人がそのつもりなら、一種の自衛手段として、自ら国際社会にアピールするしかない、と思っても不思議はないだろう。

http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-610.html

 原発事故を受けてのこうした国際社会からのリアクションは、与野党間の政権争いや、やれ原発反対か賛成かといった世論の動きや、今年の夏の電力不足だのといった内向きの動向に対する痛烈な批判とも受け取れる。「何をああだこうだ騒いでいるのか。それはとりあえず後回しだろ。今は、原発事故の収束が最優先事項のはずだ。原発事故が収束していない現状で、今後の国のエネルギー政策も何もないもんだ。なぜ国全体が一丸となって最優先事項に集中しないのか。そうしてもらわないと、周りがいい迷惑なんだ」ということだろう。

 私は、このブログを始めるにあたり「ブラッドシフト」というスローガンのもとに、今こそ日本中の「血」を福島に集めるべきだと主張した。それが何よりも増して最優先だと。しかし、それすらうまくいかない(あるいは、血は集まってはいるものの、絶対量が足りない)のだとしたら、なりふりかまわず世界中からの「ブラッドシフト」を嘆願すべきときなのかもしれない。この際、へんな意地や虚勢を張っている場合でもないだろう。情けない話だが、背に腹は代えられない。

原発事故の収束を本当に任せられるのは誰なのか?
 上記の宣言文の中には「東京電力と日本政府がこの状況を管理する能力に欠けている」とあるが、能力がないのではなく、資格がないのだと思う。客観的な立場で冷静に事態の収束に向けて努力を集中するには、東電も政府も、そして福島県民でさえ(どだい、県知事からして)、あまりにも利害が絡みすぎている。そもそもの原発事故の下地を作ってきた人間たちが、何の反省も自己批判もなしに、そのまま事故収束の当事者になっていること自体が本来ならすでにNGのはずだ。信じられないようなイージーミスが続発している裏には、事故を招いたのと同じ方法論で事故を収束させようとしている事情があると私は見ている。「安全神話」を作り上げてきたその同じ手法で、すでに崩壊しているその「神話」の本丸を立て直せると、誰が信じるだろうか?
それでも、牛歩ながらも収束に向けて歩を進めているならいざ知らず、事態をより深刻なものにしているとしか思えないような現状は、イエローカード(警告)が累積に累積して、とっくの昔にレッドカード(即刻退場)のはずだ。
 専門家からの「地下ダム」による放射能拡散防止策の提案に対する東電の言い逃れ→
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20110620ddm002070081000c.html
を見ても、自社提案を可決させるために株主総会で使った東電の姑息な手段→
http://gendai.net/articles/view/syakai/131246
を見ても、東電という企業が、相変わらず人命よりも自社の利益や組織の延命を優先していることは明らかで、この体質は矯正しようがないのも明らかだ。いったん解体して、トップの首をすべてすげ替え、徹底的な構造改革でもしない限り、何も変わらないと見るべきだ。これは、企業の組織改革を考える上での基本セオリーである。
 そんな企業およびそんな企業を容認(擁護?)している政府が、相変わらず二人三脚で原発事故の収束にあたっているのだということを、私たちは肝に銘じなければならない。それでいいのか? フランス発の件のサイトは、そんなことを私たちに投げかけてもいる。

 誤解のないように付け加えておくが、利害抜きで人事を尽くそうとする人たちがいないわけではない。しかし、利害当事者たちが彼らの足を引っ張っているとしか思えない。
 たとえば、北海道大学医学部非常勤講師(元放射線医学総合研究所研究員)の木村真三氏(放射線衛生学)は、福島原発事故発生直後、当時所属していた独立行政法人からの「独自に計測をしに行かないように」という圧力に対し、即刻辞表を提出。 3/15日から福島に乗り込み、職と命を賭け、若干の専門的協力者を得つつ現地踏査研究を行い、国の発表とは大きく異なる汚染地図を作成した。→
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/10712

 また、金沢大学の太田富久教授は、汚染水に溶けた放射性物質を捕まえて沈殿させる性質を持つ、天然の鉱物と化学物質を混合した粉末を開発した。この粉末の除染能力は、現在福島第一原発の汚染水循環処理システムに使用されているアレバ社の除染物質の20倍だという。
太田教授は、この放射性物質除去粉末の開発を完了した際、使用を提言するため、さっそく東電と政府に連絡したが、どちらからもまだ返答は得られておらず、無返答の理由もはっきりしていないという。→
http://jp.wsj.com/japanrealtime/2011/04/22/%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%8C%E3%80%8C%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%81%AE%E6%B1%9A%E6%9F%93%E6%B0%B4%E3%82%92%E6%B5%84%E5%8C%96%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E7%B2%89%E6%9C%AB%E3%82%92/

 こうした専門知識も技術も、そして何より心意気のある人たちを積極的に登用し、彼らの活躍を妨げるのでなく、客観的に支援し管理できるのは、やはり原発やエネルギー政策に関して利害のない第三者機関なのかもしれない。

 真っ先に声を挙げるべきである福島県民を中心とする実際の放射能被害者(今やこの中には私自身も含まれる)が、相変わらず声をひそめているのは、東電や政府に対する利害関係もあるにはあるのだろうが、それよりも、声を挙げたいのは挙げたいのだが、そのやり方が分からない、という次元に留まっているからだと解釈したい。誰に対して何をどのようにアピールしたらよいのか、見当がつかないのだろう。日本人は、為政者や権力者に対して自らを主張するということに慣れていないのかもしれない。それは伝統的な国民性なのか、それともそれだけ巧妙に抑えつけられていたということなのか。
 「Appeal for Fukushima」は、そうした日本人の代わりに、まさに福島の代わりにアピールしましょう、という意図だろうし、専門家でもなく政治的な力もないような一般人でも、自分たちの窮状を広く世界にアピールする方法はあるのだ、という一例を示してくれているように思う。
しかし、自分たちの現状突破を、フランス人に任せておくわけにはいかない。いいヒントをもらったのだから、ここはひとつ「SOS from Japan」を発信すべきときかもしれない。特に福島県人よ、あなたたちだ!! 「SOS from Fukushima」の方がアピール度が増すことは間違いないのだから。

「科学的判断」と「政治的判断」を混同してはならない

デンマーク風力発電が抱える問題点
 私はデンマークという国に行ったこともないし、デンマーク人の知り合いがいるわけでもない。それを承知の上で、デンマークのエネルギー政策についてこのブログで紹介してきた。それは、かつて中曽根元首相が「不沈艦」と呼んだ「日本丸」が今、舵取りに失敗して沈没しかけており、今までとはまったく違う方向へと大きな転換をしなければ助からないという認識から、諸外国の例がそうした方向転換に少しでも役立つなら、という思いからにほかならない。
 さりとて、デンマークの例が完璧で理想的なものであると盲信していたわけではなく、資源弱小国である同国が、わずか30年足らずの間にエネルギー自給率1.5%から100%にまで成長したのには、数字だけでは片づけられない事情があるだろうなとは思っていた。いかなる物事にも、表と裏、プラス面とマイナス面が等分にあるというのが常だからだ。

 そんな矢先に、「『環境問題』を考える」(管理者:近藤邦明)というサイトを発見した。
http://www.env01.net/

 このサイトによる近藤氏のレポートは、他のサイトにも度々紹介されているようで、私が近藤氏の「デンマーク風力発電の実像」というレポートを見つけたのは、以下のサイトからであった。

「ちきゅう座」http://chikyuza.net/n/

 このレポートの中で、近藤氏は、“National Wind Watch”のHP(http://www.wind-watch.org/)の“Key Documents”のレポート“A Problem With Wind Power:Eric Rosenbloom . September 5, 2006”からⅠ章の抄訳を紹介するというかたちで、デンマーク風力発電が抱える問題点を列挙している。この内容を無断転載することは禁じられているため、私なりに論点をまとめると、近藤氏が指摘する風力発電の問題点とは、おおむね次のようなものである。

○発電技術としての不安定性
○エネルギーロス(エネルギー変換効率)の問題
○平均設備利用率が低い(風があるときは動かせるが、吹いていないときは動かない。また風が強すぎるときも止めなければならない)
○重大な環境に対する影響、発電能力不足、製造コストが高い
風力発電の不安定性や発電能力不足を補うために、従来型発電所を減らせない。
風力発電は風次第で、発電過剰のときは余剰電力を廉価で輸出しなければならないし、反対に不足のときにはより安定的な電力を輸入しなければならない。
○強風による風車の破損や、昆虫の死骸による出力低下、洋上風力発電の場合は塩害による出力低下が問題となる。
○多くの風力発電装置を送電線網に接続すると、送電線網が不安定になる。
風力発電装置が不安定であり、予測不可能の激しい変動を伴うものであり、結果的に従来型のエネルギー利用を削減できないならば、風力発電装置の製造、輸送、建築にかかるエネルギー分だけ環境負荷を増やすだけにもなりかねない。

 近藤氏は、こうした問題点を論拠として、「自然エネルギー発電に対して、ごく常識的な科学的な判断として、とても電力供給技術として大規模に導入することには科学的に合理性が無い、あるいは技術的に無理だ」と判断している。
 さらに続けて氏は、次のような指摘も加えている。
風力発電の持つ本質的な技術的問題はデンマークでも解決できていないことがわかりました。ではなぜ、デンマークでは消費電力の20%もの電気を風力発電で賄えるのか?それは技術で解決したのではなく、帳簿上の数字の魔法だったようです。」
デンマークでは電力消費量の20%に見合う量の風力発電電力を一応発電していますが、国内で変動を処理できない8割程度は海外に廉価で販売し、その代わりに安定電力を購入して自国用に消費しているのです!」

■科学的判断がとどまるべき領域
 近藤氏のこのレポートは、日本が今後、今までの原子力推進政策から転じて、再生可能(自然)エネルギーの開発・普及へと大きく舵取りするなら、必然的に遭遇するであろうさまざまな問題点を先取りして指摘してくれているという点で、大いに参考になるだろう。
 それを了解した上で、あえて私は、以下の二つのことを近藤氏に申し上げたい。
 まずひとつは、一国のエネルギー政策といった問題に向き合ったときに、科学(あるいは科学者)がとるべき態度、あるいは判断とは何か、ということである。
 もうひとつは、日本のエネルギー政策を語る上で、科学的・技術的実現可能性を持ち出す前に、もっと根本的でもっと重大なこととして、国民の合意を得ぬままに政策決定がなされてきたという、民主主義の根幹にかかわる問題が真っ先に取り上げられるべきであり、その順番を逆にするなら、それは政治的判断と科学的判断を混同することにもなりかねない、ということである。

 まずひとつ目からいこう。そもそも、科学的態度、あるいは科学的判断とは何だろう。科学者(あるいは、科学的立場をとる人間)が、ある事象を取り上げて、それを科学的に論証しようとする場合、自分なりの仮説(仮にA説としておく)を立てて、それが正しいことを立証できる根拠を可能な限り集めることになるだろう。集めた根拠に論理的矛盾がなく、実験や調査によるデータにも充分信頼性があるなら、やがてA説は支持され、科学的な常識へと高められるだろう。そこで、A説とまったく相反する内容のB説が提示されたとする。B説にも多くの論拠が用意されていて、それに矛盾がなく、データ上も信頼できるものだったとする。A説が正しいのか、それともB説か。ここに科学的な葛藤が生じる。やがてA説に関する決定的な反証が現れ、B説が有力となる。これが科学的な進歩だろう。
 ここで私が何を言いたいかというと、ある事象に関する科学的な仮説が複数あるとしたら、決定的な判断要因が提示されないうちは、すべての仮説に等分の信憑性があると考えるのが、科学的態度、科学的判断であるということだ。仮に専門科学者の9割がA説を支持し、B説の支持者が1割しかいなかったとしても、A説とB説には等分の信憑性があると判断するのが科学的態度であるということだ。ここでもし、科学的判断に数の論理を持ち込んで、A説が有力であると考えるなら、それは科学的判断を越えて、政治的判断に近づく。科学に多数決の論理を持ち込むべきではないのだ。
 たとえば、原子力放射能に関しては、諸学者の間であまりにもかけ離れた両極端な学説が拮抗しているようにも感じる。そんな中で、相対する学説を根底から覆すようなさしたる科学的根拠も示さないまま、「年間20mSVの被曝は、健康に問題ない」と言い切ってしまうような学者は、もはや科学的判断を手放して、純粋に政治的判断を下しているにすぎないと言わざるを得ない。

■「政治的判断」を「科学的判断」にすり替えてはならない
 したがって、近藤氏が自然エネルギー発電に対して、発電方法としての不安定性や効率の悪さ(コストの問題)や、いわんやデンマークにおける電力の輸出入の問題(これは科学ではなく、政治・経済の問題だ)を論拠とし、それを「ごく常識的な科学的な判断」として、「とても電力供給技術として大規模に導入することには科学的に合理性が無い、あるいは技術的に無理だ」と断定してしまうとしたら、それは「科学的な判断」の名を借りた「政治的判断」になりかねない。
 もちろん、科学者が政治的判断に関与してはいけないと言っているわけではない。こうした深刻な国難が起きているときには、科学者も大いに政治的判断に参加すべきだと思う。しかし、さも科学的な立場で発言しているかのようにして政治的な判断を下すのは倫理にもとる。
 近藤氏がもし、あくまで科学的立場にとどまるなら、「デンマーク風力発電にはさまざまな科学的・技術的問題点がある」という指摘にとどめるべきなのだ。さらに、もっと気の利いた科学者だったら、それらの問題点に対する解決策も提示しているところだろう。それを、帳簿の付け方をあげつらって「数字の魔法」であると断罪したり、自然エネルギー発電に対して、「ごく常識的な科学的な判断として、とても電力供給技術として大規模に導入することには科学的に合理性が無い、あるいは技術的に無理だ」と断定してしまうなら、それは「科学的判断」と「政治的判断」のすり替えにほかならない。

 誤解を怖れずにやや乱暴な言い方をするなら、デンマーク国民にとって、再生可能エネルギーによる発電が、どれだけ科学的・技術的困難さを伴おうが、そのことが再生可能エネルギーを自国のエネルギー政策の根幹とする決断をゆるがす要因にはなり得なかったのだと思う。このことが、私の申し上げたい二つ目の論点となる。つまり、デンマーク国民は自国のエネルギー政策に関し、科学的判断をしたのではなく、政治的判断をしたのだ。その何よりの証拠が、デンマーク国民はエネルギー政策決定にあたり、「反原発」を掲げるのではなく、「エネルギー政策を国民が決める権利」を主張したという点である。

■私が「電力固定価格買取制度」に反対するわけ
 私は、菅総理が退陣の交換条件のようにして、「再生可能エネルギーの電力固定価格買取制度」を急いで成立させようとしていることには反対である。しかしその反対の根拠は、近藤氏とはまったく別のものだ。私が反対しているのは、デンマーク国民が、エネルギー政策を自らの決定権へと引き寄せたのは、特定の法的制度に反対したからではない、という意味においてである。
 今回の日本の原発事故の悲劇は、高濃度の放射能汚染であるということと同時に、政界・財界・学界・法曹界・マスコミが結託して作り上げてきた社会的な「構造汚染」であるという点にある。もちろんそこに、国民の意思や判断など存在しようはずがない。したがって、エネルギー政策をめぐるそうした社会構造には一切メスを入れることなく、その構造の上に再生可能エネルギーを載せるとしたら、再生可能エネルギーがどれほど理想的なエネルギー政策だったとしても、原子力と同じ結果が出ることは明らかだろう。再生可能エネルギーをめぐる新たな「汚染構造」が出来上がるだけの話だ。極端な話、そうした構造の中で、たとえば「太陽エネルギー兵器」の開発といった方向に事態が進んだとしても、何ら驚くにはあたらない。こうした事態は、純粋に政治的な判断からくるもので、「ごく常識的な科学的な判断」とはいっさい関係がない。
 つまり、もっともクリティカルな問題は、国民無視の場でそうした政策が決定されてしまうという点なのだ。日本は、もっとも基本的な民主主義でさえ、まるっきり実現できていなかった、ということなのだ。
 したがって、国民的合意のないまま、「電力固定価格買取制度」といった法案だけを通そうとするなら、それは「合意なき政策」であり「目的なき手段」ということになる。それは、はっきりとした目的地も示さないまま、ひとつの交通手段だけを先に決めてしまうようなものだ。つまり、なぜ何のための法案か、それによって結局何を実現したいのかさっぱりわからない、という事態なのだ。
 脱原発であろうが、再生可能エネルギーへの転換であろうが、あるいは原発推進であろうが、国民的合意のないまま、やるべきではない。ただし、今の日本政府に国民主権を前面に出せと言っても無理だろうから、ここは国民の方から狼煙を上げるしかない。つまり「反原発」でもなく「脱原発」でもなく、「これからのエネルギー政策を国民が決める権利」を主張するのだ。その権利のもとに国民が決めた政策にのっとって、その政策を実現する上でどのような具体的な法案を整備していくかが問われるべきなのだ。この一連の手続きは、はしょることも順番を逆にすることも別のものに置き換えることもしてはならない。

■基本政策が決まれば実現手段はいくらでも替えられる
 科学的な不合理性や技術的な困難さが存在することは、国のエネルギー政策の根幹を判断する上での決定的な排斥要因にはなり得ない。そのことは、原子力がいかに科学的に不合理で、技術的に無理だったかを見ればわかるはずだ。それでも今までの日本(国民ではない)が、原子力一辺倒でやってきたのには、科学的合理性や技術的実現可能性とはほとんど無関係な政治的意図があったからに他ならない。もちろん、そうした無理・無謀を押し通してきた結果が、今回の原発事故であることは言うまでもない。
 したがって、今回はもちろん最終的な政治的判断を下すにあたって、科学的・技術的なファクターを充分慎重に検討する必要がある。たとえば今ここに、国のエネルギー政策の大きな方向性を決定するA案とB案という、まったく異なる二つの路線があったとしよう。そこで、B案の方に相当数の科学的・技術的な排斥要因があったとする。ところがその要因をはるかに凌ぐ決定的な排斥要因がA案の方にある場合、なおかつ、さしあたってはC案と言える代替案が見当たらない場合、B案の方を選ぶという政治的判断があったとしても、何ら不思議なことではなく、そこに何らの「魔法」もない。
 今回の日本の場合、A案にあたるのが原子力であり、B案にあたるのが自然(再生可能)エネルギーだった、というだけである。そして、国のエネルギー政策を大きく転換させた1980年代のデンマークの事情もまったく同じだったはずだ。しかもここで何よりも重要なことは、デンマーク国民自らが、「反原発」を唱える代わりに「エネルギー政策を民衆が決める権利」を勝ち取るというスローガンのもとに、極めて自発的で粘り強く実証主義的な市民運動の末に、国に大きな政策転換を促したという点である。
 そうした精神を持つデンマーク人気質からするなら、考えられる限りの対策を講じてもなお風力発電が実証的に言って実用に供さないと判断したなら、自らの決断でもって次なるエネルギー政策への転換に乗り出すに違いない。もしデンマークがそうしないのであれば、その時は大いに批判の対象にすればいいし、日本はそれを反面教師にすればいい。しかし、今のところデンマークにそのような動きがないのは、風力発電にいろいろと問題はあるものの、「自分たちは原子力推進へは戻らない」という基本政策を堅持していることを表していると捉えるべきだろう。そこに科学的合理性があろうがなかろうが、技術的な困難さが伴おうがそうでなかろうが、それはあくまで二次的な問題なのだ。

 もちろん、デンマークは隣国と国境を接していて、ヨーロッパの文脈の中にあるために近隣諸国との電力のやり取りがしやすい、という事情もあるだろう。その点島国である日本はそういうわけにいかない分、デンマークよりも厳密なエネルギー自給体制が要求されるかもしれない。そうしたことを加味した上で、日本国民(日本政府ではない)が、自然(再生可能)エネルギーを選ばないというのであれば、それに文句をつけるわけにはいかない。とにかくいちばん重大な問題は、今までの原子力推進政策が、国民の合意なき政策だった、という点である。
 もし仮に、日本国民が原子力にNOと言い、今後、再生可能エネルギーを国のエネルギー政策の根幹に据えて行くと政治的判断を下した場合、それに伴う科学的・技術的問題を、ただあげつらって反対するのか、それともその問題を解決すべく尽力するのかは、科学者として大いに試されることになるだろう。

生産者も消費者も、ともに立ち上がれ!!

■生産者が訴えかけるべき相手
 福島を中心とする周辺地域では、「頑張ろう○○!!」「風評被害に負けるな!!」とばかり、農産物などの安全性アピールのための様々な試みがなされているようだ。イベントを開き、人気タレントを呼んできて消費者にアピールしたり、各地で物産展を催したり、といった具合だ。私も先日、そうしたイベントのひとつをのぞきに行った。「○○長」だとか「○○議会議員」といったお歴々が次々に登場し、拳を振り上げんばかりの力の入れようで、低迷する地元の生産業を何とか盛り上げようと、固い決意を表明したり、お呼びのかかったタレントたちが次々に登場してイベントを盛り上げたりと、大変な賑わいだった。
 もちろん生産者にとって、作ったものが売れないというのは死活問題だ。何とかしようとする決意には並々ならぬものがあるだろうし、あの手この手の試みは涙ぐましい努力だとは思う。いわんや、手塩にかけて作ってきたものを、出荷しても売れない、あるいは安全確認がとれないために出荷すらできず、泣く泣く処分しなければならないという悲嘆は、想像に余りある。それを憂いて自殺する生産者まで現れている。それだけ状況は切迫しているということでもある。しかし、だからこそ、生産者は訴えかけるべき相手を間違えてはならない。放射能汚染によって、安全な物作りが危ぶまれている今、生産者は誰に何をアピールすべきかを真剣に考える必要がある。

風評被害とは何か?
 まず第一に、「風評被害」とは何かをきちんと考えておく必要がある。「風評」というからには「風のうわさ」ということであり、「根も葉もないでたらめ」ということだろう。つまり「真実であるかどうか証明されないまま、あるいは信頼するに足る根拠も示されないまま流布されている情報」ということだ。ならば、こうした「風評」を作り出し、流しているのはいったい誰なのか。正確な数値も発表せず、パニックを防ぐという名目のもとに情報を隠蔽し、根拠も曖昧なままに「安全です」と主張している当局(東電、政府、学者など)ではないのか?
 風評による被害というものがあるとして、その加害者とは誰なのか。本当に安全かどうか曖昧なものを買わない消費者か? とんでもない話だ。消費者には自由選択権がある。「暫定基準値をオーバーせずに当局によって安全だとされた生産物を購入しない消費者は、復興に協力しない非国民だ」というような風潮が少しでもあるとしたら、それはすでに逆差別であり、生産者は逆に消費者に対する加害者となるだろう。生産者であろうが消費者であろうが(本来これらは“生活者”というひとつの立場にすぎないが)、被害者・加害者間のこうしたシーソーゲームに加担してはならない。
 生産者が今こうむっているのは、風評被害などではなく、原発事故被害なのだということを肝に銘じておく必要がある。原発事故の被害はもちろん消費者だって相応にこうむっているのだ。したがって、正確な情報が、漏れることも遅れることもなくきちんと公開され、安全かどうか消費者が自ら判断できる材料が出揃うまで、「風評被害」という言葉は使うべきではない。風評の被害者は生産者であり、加害者は消費者であるという構図は、補償責任を逃れたり、最小限にとどめたりするために当局にとって都合がいいだけだということを忘れてはならない。
 生産者が今訴えかけるべき相手は消費者ではなく、東電であり政府なのだ。汚染され、生産に適さなくなってしまった農地や漁場に対する補償を求める相手は明らかだ。消費者に求めるのは筋違いである。タレントを呼んでイベントをやっている場合ではない。当局による補償が十分得られないなら、訴訟を起こす必要もあるかもしれないし、そうした補償が得られる、あるいは裁判が結審するまでの間の場つなぎとして、義援金の支給やその他の二次的補償制度を要求しても誰も文句は言わないはずだ。

■消費者は不買運動を起こすべし
 消費者の方も、安全かどうか極めて怪しげなものを無理して買うこと以外に、いくらでも復興支援の方法はあるはずだ。むしろ消費者としては、安全確認がとれていない生産物は購入しない、あるいは、行政から押し付けられた基準値自体が信頼するに値しないなら、消費者自らが安全基準値を設定し、それをオーバーしている生産物は購入しないという「不買運動」を起こすべきである。それは、生産者に対する非協力のように見えるが、実は逆なのだ。なぜなら、当局に対して早急かつ正確な情報公開と迅速な事故対策を促すことになるからだ。したがって、消費者としては、生産者に対する単なる同情から、「安全かどうか曖昧なものでも、そこそこ売れてしまう」という状況を作り出してしまうことは、かえって情報の隠蔽を促し、問題の根本的な解決を先送りすることにもなりかねない。

 もちろん経済とは、ものを作って売り、それを買うという単純な活動によって成り立っている。買い手がいないものをいくら生産し販売しても経済活動は成立しないし、いくら金を持っていても市場に出ていないものは消費できない。しかし、売れるものでなければ作らない生産者や、たいして買いたくないものも仕方なく買う消費者ばかりがいくら増えても、経済はいっこうに成熟しない。やみくもな生産、やみくもな消費は作為的に作られた経済であることを忘れてはならない。そのような経済は極めて脆いものであることは、バブルの崩壊によって立証されたはずである。そんな経済は国力の目安にはならない。
 何をどのように作り、何をどのように買うのかといったポリシーもなく、量や金額だけが評価基準となり、生産者も消費者も煽られた受身の状態が続けば続くほど、統制の手が介入しやすくなる。つまり「原子力は安全で経済的でクリーンなエネルギーである」というようなデマゴギーに騙されやすくなる。
 そのように主体性を失った経済活動こそが、原子力推進を許し、結果的に原発事故を招いたとも言えるのである。

不買運動が世界を変える
 ならば、消費者がデマゴギーに騙されることなく、賢く振舞うためにはどうしたらいいだろう。ものを消費することによって成しうる社会貢献、社会参加とはどのようなものだろうか。それはハッキリしている。消費者が成しうる社会貢献は、買うか買わないかの態度決定だ。それ以外にはない。不要なもの、欲しくもないもの、あるいは怪しげなものは買わない。この「買わない」という極めて消極的な経済行為が市場を動かし、世の中を変える場合もある。いわば、買わないことによって無言の抗議をするのだ。
 欧米の消費者運動に「グリーンコンシューマー運動」というのがある。グリーンコンシューマーたちは、地球環境にやさしい製品を扱っているメーカーや販売店をリストアップした「グリーンブック」「グリーンガイド」と呼ばれるものを発行し(日本版もある)、そこに載っている企業の商品以外はどんなに安くても買わないという徹底した不買運動をしている。
 この「買わない(無視する)」という消極的な態度が、ヨーロッパやアメリカの市場全体を確実に動かし始めている。このグリーンコンシューマーの数は現在ヨーロッパでは消費者全体の20%、アメリカでは10%に達している。企業にとって10〜20%のシェア・ダウンは致命的である。そこで企業はもはや彼らの意見を取り入れたモノ作りをせざるを得なくなっている。つまり、グリーンブックに載ることが企業のステータスとなるほど、グリーンコンシューマーが市場に対する影響力を持つに至っているわけだ。ちなみに日本ではグリーンコンシューマーの数は現在まだ1%にすぎず、残念ながら市場を動かすまでに至っていない。

 ついでだが、南アフリカアパルトヘイト廃絶への道に一役買ったのは、世界の不買運動だったことも、一言付け加えておこう。
 人種隔離政策をとっていた当時の南アフリカでは、黒人だけがポラロイドカメラで撮影した写真付きのIDカードを持たされていた。僻地に隔離され、街へ出稼ぎに行かなければならなかった黒人たちは、そのIDカードの所持を義務付けられていた。
 そうした差別政策に反対する世界中の人々が、まずポラロイドカメラを買わなくなった。そして、南アフリカに進出している「バークレイズ銀行」の口座を次々に解約し、バークレイズの小切手を受け取らない店も増えた。世界の人々はさらに、大手石油会社の「シェル」のガソリンも買わなくなり、「シェル」 は対抗手段を講じたものの、結局南アフリカから撤退した。
 ボイコット運動が世界的な広がりを見せる中、当時のデクラーク大統領は「外国の圧力には屈しない」と強気の演説を国会で行った。これが引き金となって南アの株式市場は暴落、外資系企業は次々と撤退を決めた。「コカコーラ」「フォード」「IBM」 など、アメリカの155の企業、イギリスの98の企業、その他100の企業が撤退した。やがて南アへの投資家はいなくなってしまった。ボイコット運動が南アフリカ政府を追い詰めたのだ。声高に反対を叫んだわけでもない地道な消費者運動が大きな政治的圧力をかけることに成功したのだ。
 たとえばもし、相変わらず情報を隠蔽し続け、公表したとしても時間差をつけたり小出しにしたり、中身を矮小化したりしている東電や日本政府に抗議する意味から、世界中の消費者が日本製品のボイコット運動をしたら、どういうことになるのか、想像してほしい。

■生産者も消費者も、ともに立ち上がる時
 確かにボイコット運動は生産者にとっては手厳しい打撃となる。特に放射能被害を受けた地域の生産者にとっては致命的かもしれない。放射能汚染の数値が正確に計測され、生産物への表示が義務付けられたら、なおのこと売れなくなるかもしれない。そこで「風評被害に負けるな」となるわけだが、だからといって曖昧にしておいていいわけでも、ましてや表示をごまかしていいわけでもない。どんなに汚染数値が低かろうが基準値を下回っていようが、売れなければ生産者にとっては被害にちがいない。ただし、風評被害ではなく原発事故の被害である。そこを、「安全だから率先して買ってくれ」と消費者に対して消費を煽るなら、それは自由選択権の侵害になりかねない。したがって、暫定基準値を超えた生産物だけが出荷停止となり、出荷停止となったものだけが補償の対象となるのだとしたら、それは放射能被害に対する補償ではあっても、経済被害に対する補償ではない。経済被害を放射能の数値で測ってはならない。
 今、汚染地域の生産者は、究極の二者択一を迫られているのかもしれない。すなわち、あくまでその土地にとどまって風評被害と戦うなり汚染除去に取り組むなりするか、あるいはさっさと見切りをつけ、安全な土地に移って出直すか(今の日本に完全に安全な場所があればの話だが)。
 これは、人間の命を救うのか、それとも土地(環境)を救うのか、という二者択一にも通じる。本来なら、人間の命も環境もイコールのはずだし、どちらも救わなければならないはずだが、そうもいきそうにないのが、現在私たちが置かれている状況の深刻さでもある。
 事態は極めて差し迫っている。何となく「母体をとるか胎児をとるか。両方救うのは厳しい」というような状況にも似ている。母体が危機に瀕し、そのことが胎児の生存も脅かしている場合、両方救うことが難しければ、医者はどちらかを選ぶことを迫られる。もちろんここでいう母体とは土地であり、胎児とは私たち人間だが、幸いにしてこの胎児には意思があり、自分で考え、自分で決断し、自分で行動できる。母体を救い、自分も助かるために、多少の危険を覚悟で踏ん張ることもできるし、さっさと母体を諦めて、自分だけでも助かる道を選ぶこともできる。どちらにしても断腸の決断だろう。私たちは当事者の決断を尊重しなければならないが、共倒れだけは避けなければならない。共倒れになりそうだったら、勇気をもって母体を捨てる覚悟を決めなければならない。もちろん、母体をそのような危機に陥れ、自分たちの命も脅かした「真の加害者」にきっちり責任をとらせる覚悟もだ。そして、そうした断腸の決断をした人間を、温かく迎え入れる覚悟もだ。
 消費者同様、生産者もまた主体性を取り戻し、ともに立ち上がる時である。

村上春樹の回心

 今回はまず、私自身の「告白」から始めなければならないだろう。この震災とそれに続く原発事故が起きるまでは、正直なところ、私は原子力の問題について、それほど熱心に考えるタイプの人間ではなかった。ただし、まったく関心がなかったわけではない。むしろ一般の人よりは関心があったのではないかとも思う。どの程度かと言えば、たとえば、生前の平井憲夫氏の講演会に足を運ぶ、といった程度の関心だった。だからといって、特別熱心に原発反対運動をしていたわけでもないが、かといって、仲間内でその手の話題が持ち上がれば、自分の意見を言うぐらいのことはしていた。
 そうした中途半端なスタンスでいたのには、ひとつ訳があるのだが、それは、自分の周りにけっこう熱心な原発がらみの社会活動家がいて、その人たちの活動ぶりを傍で見ていると、「ああ、原発に関してはこの人たちに任せておけばいいな」といった、やや無責任で手前勝手な受け取り方をしていたふしがある、ということだ。自分独自の社会的スタンスを模索していた当時の私にとっては、すでに他人がやっていることに同調するよりも、むしろ誰もやっていないこととは何かの方に、より関心があったという事情もある。
 いずれにしろ、他人任せにしておけばいいとタカをくくっている裏には、「まさかこれほどまで悲惨な状況には至るまい」という一種の慢心があったということでもある。最近、実際に原発反対運動をかなり熱心にやっていた人から、同じ感想が飛び出して、驚いたことがあった。その人物も、「危険だから廃止せよ」という思いで原発反対を訴えていたが、まさか本当にこれほどの事故が起きるとは思ってもいなかったというのだ。
 おそらく、今までほとんどの日本人がこうした慢心の状態にあったのだろう。しかし、もはや目を覚まさざるを得ない。今の日本人に必要なことは、アウグスティヌス的回心とも言うべきものかもしれない(もちろん、宗教的な意味合いを抜きにしてだが)。
 アウグスティヌス本人の告白するところによれば、それまでの彼は「肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」という。しかしあることをきっかけに聖書から「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」という啓示を得てキリスト教に回心する。
 これを、現在の私たちに置き換えるなら、今までの私たちは「物質文明に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」が、これからは「まったく新しい規範を身にまとい、欲望をみたすことに心を向けてはならない」ということになるだろう。

 私自身も含め、いわゆる芸術や文学といった表現活動に携わる者の中でも、今回の国難をきっかけに、このような「宗教的回心」ならぬ「社会的回心」を経験する者は相当数現れるのではないだろうか。作家の村上春樹氏が6月9日、カタルーニャ国際賞を受けて行ったスピーチの原稿を読むと、どうやら彼も「社会的回心」を果たした一人であるだろうことがうかがわれる。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html?toprank=onehour

 それまでの氏は、どちらかといえば「ノンポリ」で、恋愛小説や冒険小説など、悪く言えば当たり障りのない作品を書いて、良くも悪くも世界的に評価され、多くの読者を獲得してきた。私はそうした彼のキャリアを、文才がありながらも、思想的に脆弱なためにもったいないな、と見てきた。
 ところが、今回のスピーチでは、自己反省に基づくかなり直接的な文明批判、体制批判が成されていて、物議を醸しているようだ。『我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。』というくだりには、氏の自己反省がよくあらわれてもいる。もちろん、戦後一貫して核に対する「ノー」を叫び続けてきた日本人はいくらでもいる。残念ながら少数派だったかもしれないが、その他の大多数の日本人がそれに同調できなかった、という点では村上氏の言っていることは正しいだろう。

 私は村上氏のそれほど熱心な読者ではないにしろ、長編・中編・短編含め、いくつかの小説作品は読んできた。しかし、ある時期、彼の手の内が見えてしまったと思ったときから、読むのをやめてしまった。小説の最初と最後で、結局のところ、何も起こらない、何の変化もない、主人公とそれを取り巻く登場人物群の間で、さまざまな紆余曲折はあるものの、まるで双六のように、結局最後にはすべてが振り出しに戻ってしまう、という印象しか持てないと感じたからだ。私はそのことを、ある任意の作品を取り上げて、論理的に立証することができるとさえ思ったが、そんなことに労力を割くつもりはない。
 大江健三郎氏が指摘するように、小説の役割とは、その作家が考える「世界モデル」を物語の形で提示することだと思う。小説のある登場人物が、このような事態に至ったときに、このように考え、このように行動し、それによってこのような結果が出た、という物語を詳細に語ることそのものが、ある種の世界認識モデルをまるごと提示することになる。それを読んだ読者は、「ああ、なるほど、人間というものは、こういう場合にこのように考え、このように行動するものなのか。それによって、このような結果が現れ、世界はこのように変わるものなのか」ということを受け取る。この「変わる」という点が重要なのだ。ある人物が存在し、それによって世界はほんのちょっとでも変化する。そこにこそ共感や感動が生まれる。それこそが小説の醍醐味であり、存在意義だろう。だから、物語の最初と最後で何も変わらない、何の変化ももたらされない(少なくともそう感じる)「村上ワールド」は、世界モデルとは言い難い、と私は感じてきた。
 氏はこのスピーチの中で、「無常」という概念を引き合いに出して、日本人の古来からの精神性に触れている。もちろん氏は「常なるものなど、何一つない。この世のすべてが移ろう」という字義通りの意味で「無常」という言葉を使っている。そういう氏でありながらも、今までの小説作品では、最初と最後で何ら変わりのない堂々巡りの世界を描いてきた。小説の最初と最後で、ほんの少しでも何かが変わって見せてこそ、「無常」の世界を表したことになるはずだ。実際に氏は、スピーチの中で日本人が好んで愛でる桜の花や蛍や紅葉を例示して、日本人がそうした儚い存在に見い出している「無常」の概念を説明している。ところが氏の小説の中では、最初咲いているかにみえる桜の花が、最後に散ってみせているようで、実は散っていない、というような世界を描いている。咲いた花がやがて散る、といった微妙な変化の中にこそ「無常」があるはずなのだが・・・。
 それをややシステム工学的に言えば、ある「システムA」というものがあるとして、そのシステムAに「データa」というものを入力した場合、「データa′」あるいは「データb」に変換されて出力されるとする。この場合、「データa」から「データa′」あるいは「データb」への変換プロセスが「システムA」の機能ということになるが、もし「システムA」に入力された「データa」が、何の変換もされずに「データa」のまま再出力されたとすると、「システムA」は何も機能していないことになる。
 村上氏の小説を読んだときに私が感じたのは、まさにこの「機能不全を起こしたシステム」の印象だった。したがって、氏の小説を読んだ後には、ある種の「印象」あるいは「心象」といったものは受け取れても、「結論」あるいは「変化」といったものは受け取れない、というのが私の感想だった。もし仮に、村上氏がまさにこの「機能不全を起こしたシステム」について、意図的に小説の形で表現しようとしたのなら、これからは「機能回復したシステム」について描くべきだろう。それが村上氏の作家としての回心のはずだ。特に、日本全体が「機能不全」を起こしている現在では、なおさらである。
 「壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。(中略)
 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げなくてはなりません。」
 この言葉に、作家としての村上春樹氏の並々ならぬ回心があるはずだ。氏の次回作に期待したい。

NHKスペシャル「検証・原発危機①事故はなぜ深刻化したのか」(6月5日)

 NHKスペシャル「検証・原発危機①事故はなぜ深刻化したのか」(6月5日)を見た。これを見ると、3.11の震災以来、原発事故への東電や政府の対応に関し、何ひとつ手際よくいったものなどなかった、ということがよくわかる。すべてのことが不手際、不首尾、後手後手だったのだ。普通なら、ひとつぐらいはうまくいってもよさそうなものだが、何ひとつうまくいかなかった。非常事態宣言(通報)も、全電源喪失時の外部電源確保も、ベントも、水素爆発の防止も、住民の避難勧告(避難誘導)も、放射能拡散に関する情報公開も、何もかもである。事故後の初動の5日間で、その後がすべて決まってしまったと言っても決して過言ではないだろう。
 中でも開いた口が塞がらないのは、全電源喪失(冷却装置の機能喪失)といった緊急事態でないと行わないはずのベントが、ベント弁の開閉が電動であるがために動かなかったことによって手動で行わなければならず、その分手間取ったというくだりだ。ベント弁が電動で動かなかった場合の対処法は、マニュアルには記載されていなかったという。まるで「ママごと遊び」だ。
 このマニュアル自体、全電源喪失といった事態をいっさい想定していない。不注意で想定していなかったのではない。「想定する必要がない」とはじめから「想定」していたのである。これが彼らの言う「想定外」という言葉の真意なのだ。これは、そもそも原子力開発が、完全なる安全性を追求すると経済的に成立しなくなるため、経済的に成立する程度の安全確保に努めればいい(これを称して「想定内」)としている証拠である。これを称して彼らは「原発は安全です」と呼んでいたのだ。つまりそれは「ある条件の範囲内で安全です」という意味だ。その範囲が明確に示されていない以上、それを超える事態が起こったら「想定外でした」と言えば済んでしまう。

 さて、事故対応の初動として、電源確保のために電源車を50台以上集結させたというが、ケーブルが短すぎて届かない、届いても接続部分の形状が合わなくて連結できない、連結できても、そもそも発電所内部の電気系統が故障していたため、電気が通らない、といった不手際ぶりだったという。
 これも、全電源喪失といった事態を想定してのシミュレーションも、事故対応訓練も、事故対応マニュアルも、いっさい「必要ない」という論理のあらわれに他ならない。つまり「緊急すぎる事態」は、もはや緊急でも何でもなく、それを配慮する必要も、それを想定して準備する必要もない、というわけだ。これを想定してしまうと、「原発は安全です」と言えなくなってしまうからだ。事故対策にあたったすべての当事者(政府、東電幹部、原子力委員会など)には、そもそも危機管理(リスクマネジメント)といった意識すらまともになかったと言わざるを得ない。想定外の事態が起きていない間はそれで通用していたとしても、いったん想定外の事態が起こってしまったら、「準備なき対処」「マニュアルなき実践」でいかなければならなかったはずだ。

 たとえば、今回のように、地震にしろ津波にしろ、災害の規模が桁外れで、しかも複合的な場合、被害の状況も単一ではなく複合的に起きている可能性を真っ先に考えなければならないはずだ。したがって、電源喪失によって燃料の冷却ができないという事態がもっとも深刻であり、電源確保が最優先課題であったにしろ、電源車を回すということだけに対処を集中させてしまうことは危険である。電源確保のための二の矢・三の矢を用意しておく必要もあるし、電源喪失だけでない(あるいはそれに続く)事態も想定して、先手を打ってそれに対処しておく必要があったのだ。それが危機管理のもっとも基本的な鉄則のはずだ。そんなこともわからない子供騙しの専門家たちが犯した罪は重い。
 この全関係者の不手際によって、事故は収拾不能なほど不必要に深刻化し、事故の深刻化によって、私たちは避けられたはずの被曝を強いられ、生きる場所や財産を奪われ、未来を奪われ、路頭に迷わされているのである。
 しかも、そうしたおよそ信頼するに足りない専門家たちが、いまだに最前線で陣頭指揮に立っているのだ。いったい、私たちはこの事故がいつか必ず収束すると、どのように信じればいいのだろうか?

 先ごろ、原発事故調査・検証委員会が発足し、委員長に「失敗学」の畑村洋太郎東大名誉教授が就任したという。「失敗学」とは、「ヒューマンエラー」とか「ヒューマンファクター」と呼ばれる分野を研究する学問のはずだ。人間には、間違い、勘違い、失敗がつきものだが、それがどのようなメカニズムで発生するのか、どのような条件下で起きやすいか、どのような対策によって発生率を下げられるか(ゼロにはならない)、といったことを研究しているはずである。
 本来なら、そういった専門家こそが、今現在、事故の復旧現場に真っ先に必要とされているはずだ。もちろん、これ以上の「失敗」を防ぐためにである。その分野の専門家が、最前線の陣頭指揮に立つのでなく、事故の跡を追いかけて歩く役に回されているとは、何という本末転倒だろうか。

 現状はますます、誰にも何も期待できなくなっている。私たちはそろそろ、最悪の事態を「想定」し、それに向けての「準備」をしておく必要があるかもしれない。
 最悪の事態とはこうだ。福島第一原発で使用されていたすべての燃料が外部環境中に流出し、それをくい止める有効な手立てはもはや存在しない。超高温と化した核燃料は、触れるものすべてを融かし、あらゆる隔壁を突き破り、外部環境中に出て行く。そして、放射能汚染は地球規模に広がっていく。
 もしかしたら、すでにそうなっているかもしれない。「そんなことは絶対にあり得ない」と疑う向きは、下記を参照。
「溶融ウラン、2800℃でコンクリ溶かし、すでに建屋の外か」↓
http://www.youtube.com/watch?v=kxDG4mjmEN8
その先に何が待っているのか、私たちが今成すべきことは、それをなるべく正確に把握し、それに自分としてどう向き合うか、はっきりとした態度決定をすることかもしれない。

東京はリーダー不在

 出典は定かでないが、あるビジネス書に次のような一節があった。

「マネージメントとは、可能なことが不可能にならないようにするシステム。リーダーシップとは、不可能に見えることも可能にする力」

 マネージメントとリーダーシップに関し、これほど明瞭で的確な定義を、私は他に知らない。

 この定義に照らしてみるなら、何かを「できっこない」と言い切ってしまった瞬間から、石原都知事はリーダーであることを放棄した。いや、はじめからリーダーなどではなかったのだろう。なぜなら、自分のやろうとしていることに「できっこない」と言っているのではなく、他人のやろうとしていることに「できっこない」と言っているからだ。
 不可能に見えることも可能にする力をもつリーダーは、他人が決意してチャレンジしようとしていることに対して、間違っても「できっこない」とは言わないものである。できそうにないことでも、それが必要だと思えば、できる方法を考えるのがリーダーだ。それを考えないのは、大勢がそちらの方向にいくと何か都合の悪いことがあるため、違う方向へ持って行きたいという意図があるからに他ならない。それとも、石原氏は政治に対して傍観者でいたいのだろうか? まあ、どちらかと言えば、マネージャー・タイプなのだろうが、ならば果たして氏は東京をマネージメントできるだろうか?

 石原氏が再選を果たしたとき、東京の有権者は何を考えているのかと、私は首をかしげた。石原氏に投票したくはなかったが、他に選びたい候補者がいなかった? ならば、棄権して再選挙を要求すべきだ。それとも、今回は原発事故など、あまりにも未来に対する不確定要素が大きかったため、現状維持に甘んじた? 「現状維持=今まで通り=再選」という図式なのだろうが、石原氏を再選させたことで、果たして東京は本当に現状維持できるだろうか?

 上記の定義で、マネージメントとは、ひとつのシステムなのだという点がミソである。果たして氏は、東京全体をマネージメントできるシステムを構築することができるのだろうか?
私は、こちらの方こそ「できっこない」と言いたい。少なくとも、マネージメントという手法では、東京をコントロールすることはできないだろう。
 東京は、少しずつ、気づかないほど少しずつ膨らみ続ける風船だ。メトロポリス東京は、すでに制御不能なほど、膨れ上がってしまっているのだ。ピリピリと音をたてて亀裂が入り、今にも爆発しそうな状態であるのを、あなたは感じないだろうか?
 東京にとっての現状維持とは、膨らみ続ける状態を維持することを意味する。膨らみ続けるのにストップをかけたり、少し空気を抜いて破裂しない状態にまで持って行くといった作業は、現状維持ではなく、かなり大がかりな改革になるだろう。それこそ、一度解体して再構築するぐらいの・・・。少なくとも、マネージメントで改革はできない。

 東京を、新たな防災都市へと変貌させる? どんな災害が起きても耐えられるだけの、強靭な屋台骨を構築する? しかし災害はすでに起きているのだ。ただそれが目に見えないところで起きているため、おそらく誰も気づいていないのだろう。
 マネージャー・タイプの指導者が防災を考えると、どうしてもいろいろなものに「規制」をかけるという発想になる。建築の仕方を規制する、土地利用の仕方を規制する、といった具合だ。つまり、行き過ぎているものにブレーキをかける、という発想だ。このやり方は、通常の意味での成長や発展と逆方向のベクトルとなる。一般に、規制と成長・発展は両立しえない。むしろ成長・発展をうながすなら、規制緩和の方だろう。石原氏は、規制緩和による東京の成長・発展と防災対策の両立というマジックができるだろうか? あるいは、規制をかけずに東京を安心・安全な都市にするという手法だろうか?

 おそらく、石原氏の思惑に反して、東京は勝手気ままな方向へ向けてどんどん膨れ上がろうとしている。この、膨張するという方向において、東京は不可逆的である。あるいは、東京だけでなく、あらゆる大都市がそうかもしれない。不可逆的ではあるが、膨張する方向に一定の法則があるかと言うと、それを予測するのは極めて困難だろう。何かを囲い込もうと規制すればするほど、その網の目をかいくぐって、膨張のエネルギーはあらゆる方向へ逃れようとするだろう。まさに、熱力学におけるエントロピーの法則だ。人間の手で制御不能なものは、不可逆的に混沌へと向かっていく。
 こんもりとうずたかく積み上げられた砂の山を崩すまいと、手を突っ込んで抑え込もうとしても、砂の粒は指の間から少しずつこぼれ落ち、こぼれ落ちた砂は他の砂にも微妙な影響を与え、その影響がいたるところに波及する・・・。この現象自体がすでにひとつの「災害」である。しかも「人災」だ。そのようにして砂山は崩壊へと向かう。

 膨れ上がり、崩れかかろうとする砂山を、何とか押しとどめるにはどうしたらよいだろう。マネージメントにできることは、そうした膨張と崩壊の動きの後を何とか追いかけ、せいぜいほころびを繕うことぐらいだろう。もう少しスマートな方法をとりたければ、東京を何とか制御可能になるまで細かく分割し、分割したかたまりを、それぞれ他からなるべく影響を受けないように独立させ、自律的に機能できるようにする(相互のつながりを完全に断ち切るということではない)ことだろう。デカルトは言った。「難問は分割せよ」
 そのためにはもちろん、分割したそれぞれのかたまりにリーダーを個別に配し、自治権を譲り渡す。そして、都知事は全体のまとめ役として、それぞれの自治がやりやすいように支援する。これが本来のマネージメントのはずだ。本来は都内の区とか市がそうした自治区のはずであり、区長や市長がそのリーダーのはずだ。少なくとも世田谷区長はそのつもりだろうが、都知事は支援するどころか、足を引っ張っている。

 冒頭の定義に戻ろう。マネージメントとは、「可能なことが不可能にならないようにするシステム」である。平たく言えば現状維持のシステムだ。しかし、東京に今必要なのは現状維持ではなく改革である。改革とは、マネージャーではなくリーダーの仕事だ。しかも今の東京には強力なリーダーシップを発揮できるリーダーが必要だろう。リーダーシップとは、「不可能に見えることも可能にする力」である。つまりどんなに不可能に見えても、必要だと思えばそれを目標として掲げ、その実現に向けて強力に都民を引っ張っていく力だ。その実現のプロセスに必要となるのがマネージメントである。したがって、リーダーシップあってのマネージメントであり、この順番を逆にすることはできない。
 だから、本来なら、マネージャー・タイプの石原氏ではなく、強力なリーダーシップを発揮する人間が都知事となり、石原氏は副知事のようなサブ(いわば、参謀役)のポジションに就くのがちょうどいい。それが無理なら、東京を分割するしかないだろう。

 財政破綻した北海道の夕張市を立て直すべく、元東京都職員の鈴木直道氏(30歳)が史上最年少の市長に就任した。鈴木市長の要請を受けた石原都知事は、副市長相当の理事職に、都から8月をめどに課長級職員を派遣することを決め、都庁内に夕張との連携を図る対応窓口を設置すると約束した。元部下の活躍を支援する都知事の英断のように扱われているが、本来ならこれは、保坂展人世田谷区長に対して都知事がとるべき施策ではないのか?

 さて、このように、リーダー不在であり、混沌へと不可逆的に進みつつあり、それをくい止めるには分割統治しかないといった状況は、東京という一自治体に限らず、今の日本全体に言えることではないだろうか? そういう意味でも、今の東京は日本の縮図である。日本全体も、強力な牽引力を発揮するリーダーを待ち望んでいる。後藤新平のような? それはどうだろう。

 実は、日本に限らず、世界中でもそうしたリーダーが望まれていなかった時代などなかった。そして望まれたリーダーが与えられた時代もなかったのである。私たちは常に、「絵に描いた餅」に寄りかかろうとしているのだ。ブッダイエス・キリストといったスケールのでかい救世主が、人類史の極めて初期の段階に現れて、それ以来登場していないことの意味は大きい。(現れてはいても、歴史の闇に葬り去られていたのかもしれないが)(もちろん、ガンジーキング牧師ネルソン・マンデラといった人たちを考慮していないわけではない)
 これからは、特に乱世の時代には、強力な指導者を待ち望む前に、私たち一般人の一人一人が、ほんの少しずつでも歴史の牽引役としての自覚に目覚め、リーダーの役割を分担し、その力を結集して大きな力(不可能に見えることも可能にする力)を発揮すべき時代なのだ。