放射能被害は「科学的判断」ではなく「政治的判断」の問題である

■私たちは究極の選択に迫られている
 この時期、放射能汚染で強制避難区域や避難勧奨区域となっているエリアの住民の方々はもとより、そうでなくとも、決して低い線量とは言えない微妙な区域(たとえばホットスポットのような)にお住まいの方々、特に小さなお子さんをお持ちのお母さん方は、さぞかし不安で胃の痛むような日々を過ごしていることだろう。私の居住区域は福島ではないが、隣接する自治体で、やはりホットスポットが点在する正真正銘の汚染地域となってしまった。
 「ここに留まって大丈夫なのか、それともさっさと避難すべきなのか」今私たちは究極の選択に迫られている。私たちの脳裡をかすめるものは、たとえば次のようなものだろう。

放射能は微量でも危険か、それとも微量ならむしろ健康によいのか?
○年間20mSVという「引き上げられた暫定基準値」は妥当か、それとも不当か?
○年間1mSVという、もともとの基準値ならば、納得がいくか?
放射能があくまで「毒」ならば、「薄められた毒」は安全か、それとも危険か?
○そもそもどの程度「薄め」れば、「安全な毒」と言えるのか?

これらはどれも、純粋に科学的な命題のように思える。しかし、現在の科学(たとえば放射線学)は、これらの命題に明確な解答をもたらしてくれているだろうか? 私たちの不安や迷いを解消するのに十分な確証を与えてくれているだろうか? 私たちの疑問は、さらにこう続くのではないか。

○同じ専門家でも、どうして北極と南極ほどにも極端に見解が食い違っているのか?
○特に、内部被爆のことになると、見解の差は歴然とするように感じるが、それはなぜなのか?
放射能の影響は、あまりにも個人差が大きいというが、ならばいったい何のための基準値や統計や確率なのか?

 「なぜ?」「真相は?」という疑問が相変わらず宙に浮いたままだ。私たちはすべてが未消化のまま、疑念も不安も迷いもいっこうに解消されない。「まあ、答えの出ない疑問は多々あるけれど、それはとりあえず置いておいて、とにかく前向きに元気出して行きましょう」というわけにいくだろうか。これは一見ポジティブな態度に見えて、実は何の判断にも態度決定にもなっていない。これは一種の思考停止にほかならない。ある種の思考の落とし穴にはまっているのだ。

■今私たちに必要なのは科学的知識ではなく「危機管理能力」
 実際の話、原子力放射能の分野ほど、専門家によって見解が極端に分かれる分野もないだろう。もちろんそれにはそれなりの理由がある。たとえば、研究対象が目視のきかないミクロの世界であるということ。そのくせ、強大なパワーを相手にすることとなり、それだけ危険を伴い、充分な実験を積み重ねたくても、膨大な設備を要したり、それだけコストがかかってしまったり、リスクが大きすぎたりと、なかなか一筋縄ではいかないやっかいな対象を相手にするということ。たとえば、コストやリスクを抑えるために小さな実験室で、規模を極小化した形で実験を繰り返したとしても、それを極大化した場合に同じ現象として現れるかどうかは、簡単に敷衍することができないということ(※)。したがって、研究対象のすべてが科学的に立証されているわけではないということ。しかも、同じ対象でありながら、物理学的見地、生物学的見地、医学的見地という具合に、科学的アプローチの仕方が多岐にわたっているということ。
 他にもいろいろあるだろうが、全てをあげつらうことは、ここではあまり意味がないので、このくらいにしておく。

※蛇足ながら、原子力に関する極端に極大化した形での実験は、アメリカやロシア(当時のソ連)をはじめとする欧米諸国がさんざんやってきた原水爆実験であることは言うまでもないが、これはもちろん軍事目的であり、実験結果として様々なデータがとられているはずだが、極秘事項として表には出てこない。まったく公表されていないわけではないだろうが、軍事的事項の性質上、どれだけ純粋に科学的信憑性があるかは、極めて疑わしい。極端なバイアスがかかっていると見るべきだろう。そんなものを判断材料にはできない。

 いずれにしろ、重要な点は、私たちは専門家のこうした研究にいちいち付き合ってはいられないということだ。そんな暇に放射能はどんどん垂れ流されているわけで、さっさと判断を下して行動しなくてはいけないのだ。ひところの映画のセリフを借りるなら、「事件は現場で起こっているんだ。研究室の中で起こっているんじゃない!!」というわけである。
 どんなにその分野の科学的情報を集めても、どんなにその分野の専門家の話を聞いても、決定的な判断材料が手に入らないなら、私たちがとるべき態度はただ一つ、その手の科学的判断を手放す、ということだ。こと原子力放射能の分野に限って言えば、自然科学的判断に結論を求めても答えは出ないだろう。となれば、人文科学を持ってくるしかない。
 実験室の中にいる研究者ではなく、生活空間で実際に放射能被害に遭っている一般の私たちにとって、これは物理学や医学の問題ではなく、むしろ「危機管理」の問題なのだ。普段、普通に生活している私たちにとって、危機管理などほとんど無縁な世界だろうし、専門的な勉強などしようはずもないだろうが、実は今もっとも求められているのはこれなのだ。
 もちろん私は危機管理の専門家でも何でもないが、それでもちょっと考えればわかる程度の、基本的なものの考え方、状況判断の仕方ぐらいは挙げることができる。それをここで試みよう。

放射能をプロファイリングする
 危機管理の第一歩は、そもそも自分がどのような対象を相手にするのか、その相手の性格や特徴をできる限り的確に把握することである。いわばこれは、犯罪捜査におけるプロファイリングの手法といってもいいだろう。もちろん私たちが相手にするのは「放射能」である。
 今回、地震津波原発事故と、立て続けに3つの惨事に見舞われたことは、このプロファイリング作業にとっても、ある意味非常に象徴的だったといえる。過去の例でもそうだが、今回もまず、地震による揺れよりも、津波の被害の方が圧倒的に壊滅的だった。この津波の破壊力は、放射能被害をプロファイリングする上で、ちょうどよい比較対象になり得るだろう。以下、津波放射能に関する性格比較を列挙してみよう。

津波は目視できる(危険が認識しやすい)、放射能は感知できない(危険が認識しづらい)。
津波は瞬時に危険を察知できるが、放射能はすぐには影響が判断できない可能性が大きい。したがって、津波に対する対処は単にスピード勝負だが、放射能に対する対処はだらだらと長引く傾向にあり、危機感も時間とともに薄まりがちになる。しかしその裏で被害は確実に広がる傾向にあるため、対処が後手後手に回る嫌いがあり、気づいたときには手遅れになりがちである。
津波は対処法が単純でハッキリしている(人によって見解が異ならない=即刻逃げるしかない)が、放射能は専門家の間でも対処法が極端に異なる(一般人は判断に迷う)。
津波は全人類的に何度も経験していて慣れている(はずだ)が、放射能に関しては全人類的にあまりにも未知の領域すぎる。(あるいは、情報があっても、軍事的・政治的意図によって隠されている)
津波は被害範囲や規模がある程度限定できるが、放射能は被害の及ぶ範囲や規模を正確に予測するのも限定するのも困難(実質的には不可能)。しかも遺伝子が傷つくことによって、被害が一代で終わらない可能性もある。

 こうして比べてみるとはっきりすることは、やはり放射能は極めてやっかいで、ひとたび事故が起きて暴れ出したらほとんど制御不能ということだ。
 ただ、津波放射能に共通して言えるのは、どちらもその場に踏みとどまって立ち向かおうとしても無駄だということだろう。放射能に関しては、被害現場にとどまって、ある程度民間レベルの自衛手段をとることもできるだろうが、効果のほどは極めて疑わしい。どれほど最先端の自衛手段をもってきたとしても、まだまだ研究途上の分野であることに変わりはない。
 もうひとつ、津波の危機が迫るスピードと放射能汚染の危機が迫るスピードの違いについて、気になることがある。チェルノブイリ事故のときは突発的な爆発事故だったため、危機の迫り方はかなり津波に近いスピード感だったと言えるかもしれない。その点今回の福島第一原発事故の場合は、かなりだらだらと長引かされたスピード感だと言える。ところが、津波も今回の原発事故も、人が一瞬判断に迷い、とんちんかんな行動に出てしまうだけの「遅さ」を持っていた、という点では共通しているかもしれない。実際、津波のときにも、いったん避難しかけたが、まだ間に合うだろうと判断して、貴重品をとりに急いで家に引き返して波にのまれてしまった犠牲者がかなりいたようだ。放射能の危機についても、同様のことが起こりかけているのではないかと、私は個人的に危惧している。

 津波のときには「危険です、少しでも高いところへ直ちに避難してください」とスピーカーで警告し続け、結局波にのまれて死んだ消防署の女性署員がいた。もちろん彼女は津波の専門家ではなかったろうし、人心を惑わすために叫び続けたと思う人間はいないだろう。そしてもちろんその時の彼女は、避難した後の住民の生活のことなど、念頭にあったとは思えない。今、放射能に関して同じことをしている人間がいる。「放射能はたとえ少量でも危険です。少しでも線量の低いところへ直ちに避難してください」という具合だ。この警告に素直に従うも人もいるだろうし、住民の不安をいたずらに扇っていると解釈して、耳をふさぐ人もいるだろう。
 どう考えても、これは警告を発している側の問題ではなく、受け取り手の問題であり、放射能という極めて特殊な対象と向き合ったときに、私たち一般の人間がどのような反応を示すかという問題だろう。

■数字は巧妙にウソをつく
 目に見えない、匂いも味もない、物理的な重さも感じられないという放射能を相手にする場合、頼りになるのは計測値であったり、統計や確率などの数値データであったりと思いがちだが、数値ほどバイアスをかけやすい情報はない。しかも数値データは世に大量に溢れている。氾濫する大量のノイズの中から当てになる数値データを探り当てることは、砂漠の砂の中から一粒の砂金をより分けるようなものかもしれない。だから、数値はほんの参考程度と思った方がいい。
 数字は巧妙にウソをつく。真実だと信じ込んでいた数値が、簡単に覆されてしまうことなど、よくあることである。しかも、あらゆる情報が乱れ飛んでいる現状では、ひとつの情報が提示された瞬間に、まったく正反対の情報が提示されるといったことが日常化しているだろう。
 どれほど大量の統計的データを持ってこられても、パーセンテージを表す計算式を示されても、それで自分の子どもが将来ガンになるかならないかの決定的な判断材料にはなり得ない。決定的な判断材料にならないからには、それらの数値を最終的な判断基準にすることなどできようはずもない。
 米国ジョージ・メイソン大学の物理学教授ロバート・アーリックは、その著書「トンデモ科学の見破りかた」(草思社)の中で、次のように述べている。

「19世紀の英国の首相で小説家でもあったベンジャミン・ディズレーリによれば、『世の中には三種類のウソがある。すなわちふつうのウソ。真っ赤なウソ、そして統計である』。まるっきり誤った理論を裏づけるために統計的な主張がなされることはよくある。そうなる理由は、意図的な偽証、無意識的な偏見、統計の適切な使い方を知らない、のいずれかである。こうした統計の誤用をたえず監視しておく必要がある。おそらくこれが、間違ったトンデモない考えを見分ける最も確実な方法である。」

 私は個人的に、統計や確率の裏には、情報の発信者が意識するしないに関わらず、ほぼ間違いなく政治的意図が隠れていると見ている。少なくとも、その数値データを何らかの論拠に役立てようとする者には政治的意図がある。したがって、数値を信じるにしろ無視するにしろ、肝心なのは隠れている意図を読み取ることである。
 数値に振り回されるのも、数値の上にあぐらをかくのも、ともに危険である。数値とは、思考停止のちょうどいい言い訳になりやすい。私たちに今問われているのは、科学的判断ではなく危機管理能力であることはすでに述べた。危機管理の基盤に数値を置くなら、信じていた数値に裏切られる危険性も覚悟しなければならない。

 統計や確率による論証の裏にある隠された意図、情報操作といった問題は非常に重要で、戦後の日本が原子力開発に拍車をかけてきた根本的理由に抵触する部分でもあるので、また機会を改めて詳しく取り上げたい。ここでは、数値データに対する警告のレベルにとどめておく。

■科学者の「政治的判断」
 私たちの思惑とは裏腹に、専門家は数値的データを論拠の基盤において持論を展開したがる。特に、諸学者の間であまりにもかけ離れた両極端な学説が拮抗しているようにも思える原子力放射能の分野では、論拠として提出される数値も極端に異なるように感じる。
 たとえば、「年間被曝量が20mSV以下なら安全だ」という専門家と「とんでもない、年間1mSVだって避けるべきだ」という専門家と、どちらを信じるべきか、という判断があったとしよう。
 そこで、本来純粋に客観的な科学的立場に立とうとするなら、両方の専門的見解があることを踏まえた上で、判断は受け取り手に委ねるべきなのだ。実際、「年間20mSVまでは安全である」という論拠を探しても、「1mSVだって危険である」という論拠を探しても、どちらも等分に見つかるだろう。したがって、「科学の誠意」を問うならば、「どちらとも言える」あるいは「わからない」というのが、より誠実な答えのはずだ。それ以上の判断を求められたら、「これは科学でも何でもなく、純粋に個人的な見解だが、」という前置きつきで答えるべきだ。
 したがって、「どこそこは、将来はわからないが、今すぐには危険はない」という科学者も、「危険だから今すぐ避難すべき」という科学者も、どちらも科学的判断を通り越して政治的判断に近づいていると見なした方がよい。もちろん科学者が政治的判断を下してはいけないというわけではない。むしろ今は、専門的立場から一歩踏み込んだ議論が必要だ。問題は、その専門家がどのような政治的立場に立っているかである。そしてその政治的立場に、あなた自身が賛同できるか否かが、判断の分かれ目になる。これは明らかに自然科学の問題ではない。
 なかには自身の政治的立場を比較的明確にしている専門家もいる。一方、特定の利害がからんだ政治判断をしている専門家なら、本人に問い正したところで、そう簡単に本音を言うはずもない。それぞれの立場はなかなか複雑で単純に言うことはできないが、少なくとも、その人物が政治的弱者の立場に立っているか、それとも強者(権力者、支配者)の立場に立っているか、という判断ぐらいはしておく必要がある。もちろん、政治的な立場を乗り越えて、純粋に科学者として中立な立場で発言する人もいるだろう。しかし、そういう人がどのような答えになるかは、すでに指摘した。

 先に引用したロバート・アーリック博士は同掲書の中で、次のように述べている。

「科学のある種の領域は政治から遠くかけ離れているが、そうではない領域もある。とりわけ環境や人間の健康といった領域では、提案者の政治的な偏向が、賛否両論のある考えにどこまで正直に対処するかを大きく左右することがある。そういう場合、研究者の研究費の資金源がどこにあるかが、政治的な偏向の重要な手がかりを与えてくれるかもしれない。」

 まさに放射能被害は、環境被害であり健康被害である。さてそこで、政治的強者(つまり日本政府)の政治的判断は、被害者への補償をなるべく最小限にとどめる目的で、被害範囲や規制範囲をなるべく狭く見積もっておきたいという方向に働く。したがって政治的強者の立場に立つ学者は、汚染許容数値の閾値をなるべく弛めに設定したいという方向に傾く。年間1mSVからいきなり20mSVに引き上げたのは、そのような政治的意図があったと見るべきだが、政治的弱者がそれに異議を申し立てた場合、政治的強者はそれを聞き入れて閾値をきつめに戻すという方向ではなく、逆により緩やかな値でも安全なのだという情報を流すことによって(あるいはそういう情報に便乗するようにして)、20mSVという値を受け入れさせようという方向に働くだろう。たとえば、先ごろ来日して会見を行ったロシアのアルチュニャン博士は、年間20mSVという引き上げられた暫定基準値について、次のように述べている。
 「最初の1年で累積される放射線量が20ミリシーベルト以上であれば避難対象となるという基準が発表されています。この基準レベルは、国際的な勧告および科学的なデータにもとづき、50ミリシーベルト、もしくは、100ミリシーベルトという数値に設定しても問題にはなりません。100ミリシーベルト以上の地域に絞って避難対象としても問題ありませんし、まったく安全な数値です。」
http://news.livedoor.com/article/detail/5699797/?p=1
 私たち素人は、この発言の科学的信憑性など確認しようがない。唯一判断できるのは、博士がどのような政治的立場に立っているか、ということだけだ。これは、ある毒の危険性を過小評価する意図があるときに、その毒の20g溶液が安全なレベルかどうかという議論に対して、50g溶液であっても100g溶液であっても問題なく安全なレベルであると言って、「ああ、そんなに濃くても安全なのだから、20なんて、本当に大したことないんだ」と思わせる手口である。年間20mSVまでとする学者と、50でも100でも大丈夫だとする学者と、政治的弱者への統制度がどれだけ違うかは明らかだ。これは単純に日本とロシアの政治的統制度の違いを反映しているのかもしれない。このロシアの科学者が、誰に旅費を出してもらったか、あるいは純粋にプライベートで来日したかに関係なく、政治的な立場としては、強い統制度で、結果として日本政府の政治的意図に貢献していることには違いないのだ。

■とにかく選択肢を増やすべし
 さて、私たちは以上のようなことを踏まえて自分の意思決定をする必要があるだろう。その意思決定こそが、私たちの政治的判断(あるいは決断)なのだ。判断し、決断したことには、もちろん運命を共にする(あるいはあなたの決断に何らかの影響を受けるであろう)人間に対する責任が生じる。その判断がもし将来間違っていたと判明したとき、その影響に対する責任は問われて当然だ。責任がとれるかとれないかは、また別の問題だが、問責を免れる言い訳は何ひとつない。
 その場合、何の利害もない一個人として気をつけなければならないことは、自分が真に公正な立場で判断しようとしているか、それとも、特定の立場の論拠にだけ注目して、その反対の立場の論拠にはあえて目をつぶろうとしているか、ということだろう。あなたが後者なら、自分が偏向している側の論拠に因ろうとしている科学者の(隠された)政治的立場に(好むと好まざるとに関わらず)与することにもなりかねない。あなたが意図してそうするなら、それは立派な政治行為だし、意図せずとも結果的にそうするなら、それは「無作為の加害者」となってしまうことにもなりかねない。

 結局のところ、人間は自分の見たいものしか目に入らないし、聞きたいことしか耳に入らない。自分にとって心地よいと感じるものしか受け入れようとしない。目も耳も、心の窓でしかないのだ。しかし、本当に必要なものは、えてして自分があえて目をそむけている部分にこそあったりする。
 したがって、危機管理の基本セオリーとして次に挙げておかなければならないのは、ある究極の決断を求められたとき、それを実現する選択肢を可能な限り増やすということである。もっともリスキーなのは、選択肢がひとつしかない、ということだ。ある意味、もっと危険なことは、選択肢がひとつしかないと“思い込む”ことである。「これしかない!」と思った瞬間から、人間は思考停止になる。思考停止になることが、もっとも危険である。思考停止状態の人間ほど他人にコントロールされやすい存在はない。そもそも、マインドコントロールの最初の手口は、人を思考停止状態にすることにほかならない。思考停止状態ほど危険なリスクはない。このリスクから逃れる術は、考え続けることしかない。
 次にリスキーなのは、究極の二者択一を迫られるということである。この場合も、真っ先に考えるべきことは、本当に選択肢は二つしかないのか、三つ目以降の選択肢はないのか、を必死になって考えるということである。ここでも、考えることを止めないことが重要である。
 このようにして、選択肢をなるべく沢山持つことが、リスク回避の第一歩となる。できれば最低でも10個の選択肢を、何が何でも捻り出して検討の俎上に載せることをお勧めする。実は、選択肢を二桁の大台に乗せることには重要な意味がある。最後の方で、絞るように捻り出した選択肢ほど、最終ゴールに近かったりする。なぜなら、知恵を絞れば絞るほど、自分で自分にはめていた心の枷がゆるむからだ。
 さて、次にやるべきことは、用意したそれぞれの選択肢の利点・欠点(実際にそれを選んだ場合の問題点)を列挙することである。そしてそれらをつぶさに検討し、利点と欠点を秤にかけ、絞り込んでいく。いわば、「柔軟な発想力でアイデアを出し、厳密な分析力でふるいにかける」といったところだろう。

 こうした過程の中で、おそらくあなたは二つのことに思い当るに違いない。
まずひとつは、取捨選択のプロセスにおいて、人生の選択を迫られたときの、今までの自分の選択パターンを省みることになるということだ。
 人生は一瞬一瞬が選択である。そのいちいちで自分が何を選択したかでその後の運命は変わる。人間にはだいたいにおいてそういう場合の選択パターン(選択の傾向)というものがある。たとえば、人生の分かれ道にさしかかったとき、ルートAを選ぶかルートBを選ぶかには、ある種の傾向がある。問題を単純化するために、ルートAをより現状維持的(保守的)な道、ルートBをより冒険的(革新的)な道としよう。Aを選ぶAさんは、だいたいにおいてどんな場合でもA(あるいはよりAに近いもの)を選ぶ。Bさんの場合も同様だろう。この選択の傾向が、その後の二人の人生をどのように変えて行くかは、想像に難くない。
 この選択パターンは、「ここにとどまるべきか、それとも逃げるべきか」といった判断にも大きく影響してくるだろう。そこで考えるべきことは、自分の選択パターンが、本来自分に備わっているものか、それとも誰かに押しつけられたものか、ということだ。特に現状のように、皆が共通の拠り所を失い、新しい規範が求められているようなときには、個人も新しい選択のパターンを獲得する必要があるかもしれない。
 もうひとつは、上記にも関連するが、今までさまざまな形ですり込まれてきたであろうマインドコントロールに思い至り、それがおそらく少しずつ解けてくるのを実感するだろうということである。
 私たちが今まで、親や周りの人間から、教育から、社会(常識や通念)から、政治(国)から、専門家から、あるいは時代から、どのようなマインドコントロールを受けてきたのか、そしてそれをどのように解除したらよいのか、という問題は大きな問題なので、また改めて取り上げたい。

■二つの「政治的決断」の後にやってくるもの
 もう少し具体的に見て行く必要があるだろう。考えられるすべての選択肢を取り上げて検討することはできないので、問題を絞り、代表的な二つの選択肢を挙げて、それを選択した場合にどのような結果になっていくかを、一種の思考実験(シミュレーション)として見てみよう。したがってここでは、便宜上最悪の場合を想定してみる。あなたがギリギリであれ何であれ、どこかのタイミングで最悪の結果を逃れられるなら、それで結果オーライなのだから。おそらくあなたが下すことになる決断は、この二つのシナリオの間のどこかにあるだろう。
 なお、ここでは、福島第一原発から微妙な距離にあり、とどまっても大丈夫なのか、それとも即刻避難すべきなのか迷う地域の総称という意味で、あえて「福島」ではなく「Fukushima」と便宜上表記しておく。

<シナリオ1>
あなたが、あくまでFukushimaに留まったとする。留まったら留まったなりに、子どもの健康管理には十分注意したが、仮に20年後、不幸にも一緒に留まった子どもがガンにかかってしまったとする。発病の原因は、Fukushimaに留まったことしか考えられない。そこで子どもはあなたの当時の「政治的決断」の是非を問うたとする。それに対してあなたは、判断責任を全面的に当時の日本政府に押し付けることもできる。そのとき子どもの目に映るものは、責任を他人に押し付けて言い逃れをしている親の姿である。ただそれだけだ。一方、もちろんまず最初に謝罪があってもいいわけだ。もし仮に、子どもが健気にも「お母さんのせいじゃないよ」と言ったとしても、あなたは自責の念を免れるだろうか? ここでもしあなたが「子どもはあくまで親と運命共同体であり、親の決断に従うのは当然だ」とばかり謝罪を拒否するなら、あなたは同じことを今、日本政府に言われても(「国民はあくまで国と運命共同体であり、国の決定に従うのは当然だ」という具合に)、文句は言えないことになる。そこでもし子どもに釈明を求められ、避難しなかった理由として、避難した先での新たなストレスや、家族がバラバラになるリスク、一家の大黒柱が職を失い、生活できなくなるリスクなどを挙げ、結果として政府や学者の「安全だ」という言葉を信じたのだと言うとする。どう言い訳しようが、結局のところあなたは、現状維持による安定・安心感と子どもの健康リスクとをハカリにかけ、現状維持を優先させたことになる。「結果責任」をどうとるかは、それからの子どもとの話し合い如何だろう。

<シナリオ2>
あなたは、早々にFukushimaから避難したとする。とりあえず子どもだけを避難させるか、あるいは夫だけを遺して、自分と子どもだけで避難するか、それとも家族全員で避難するか、いずれにしても大きな生活の変化と、それに伴うストレスやリスクを免れない。あなたは、それらを極力回避するため、最大限の努力をしたが、不幸にもストレスによる免疫力低下によって子どもが何らかの病気にかかってしまい、Fukushimaに戻りたいと訴えたとする。しかしもはや戻ることは物理的にできない。あなたはそこで、無理してFukushimaを離れたことを後悔するかもしれない。しかしあなたは子どもを何とかなだめて、病気から回復させるため最大限の努力を払うしかない。そうせざるを得ないだろう。つまり、避難先での再スタートがたとえどん底からのスタートだったとしても、少なくとも努力によって上向きにすることはできると信じることはできる。信じることしかできない。仮に20年後、そうした努力も虚しく、不幸にも子どもがガンにかかってしまったとする。そこで子どもは「どうせこうなるなら、Fukushimaに留まればよかった」と言うだろうか? それとも「お母さんは最大限努力してくれた。自分が病気になったのは、お母さんのせいじゃない」と言うだろうか? どう言われようが、あなたは現状を上向きにするための努力を止めるだろうか? 何が起ころうが、あなたのとるべき態度は「自分を信じて努力する」ということだけのはずだ。

 さて、こうしてシミュレーションしてみると、<シナリオ1>を選んだ人は、どちらかといえば放射能ではなく「変化」を怖れていることがわかる。そして、本来自分が下すべき政治的判断を他人の手に委ねている傾向が見て取れる。しかしどれほど他人の手に委ねようが、最終的に責任をとるのは自分である。責任を長引かせることはできても免れることはできない。
 一方、<シナリオ2>を選んだ人は、純粋に放射能のリスク回避を重んじていることがわかる。そして、「自分の人生はあくまで自己責任」という態度が見て取れる。そこにはいかなる申し開きも後悔も無用だろう。
 しかし、お断りしておくが、これらはあくまで最悪のパターンを想定したシミュレーションであり、最悪のことが起こらなければ、それに越したことはないし、これらのシミュレーションは意味をなさない。しかし、最悪のことが起こらないという保証が何もない以上、考えておく必要はある。繰り返すが、いちばんリスキーなのは、思考を停止してしまうことである。

 すべての政治的弱者の上に幸運を!!