生産者も消費者も、ともに立ち上がれ!!

■生産者が訴えかけるべき相手
 福島を中心とする周辺地域では、「頑張ろう○○!!」「風評被害に負けるな!!」とばかり、農産物などの安全性アピールのための様々な試みがなされているようだ。イベントを開き、人気タレントを呼んできて消費者にアピールしたり、各地で物産展を催したり、といった具合だ。私も先日、そうしたイベントのひとつをのぞきに行った。「○○長」だとか「○○議会議員」といったお歴々が次々に登場し、拳を振り上げんばかりの力の入れようで、低迷する地元の生産業を何とか盛り上げようと、固い決意を表明したり、お呼びのかかったタレントたちが次々に登場してイベントを盛り上げたりと、大変な賑わいだった。
 もちろん生産者にとって、作ったものが売れないというのは死活問題だ。何とかしようとする決意には並々ならぬものがあるだろうし、あの手この手の試みは涙ぐましい努力だとは思う。いわんや、手塩にかけて作ってきたものを、出荷しても売れない、あるいは安全確認がとれないために出荷すらできず、泣く泣く処分しなければならないという悲嘆は、想像に余りある。それを憂いて自殺する生産者まで現れている。それだけ状況は切迫しているということでもある。しかし、だからこそ、生産者は訴えかけるべき相手を間違えてはならない。放射能汚染によって、安全な物作りが危ぶまれている今、生産者は誰に何をアピールすべきかを真剣に考える必要がある。

風評被害とは何か?
 まず第一に、「風評被害」とは何かをきちんと考えておく必要がある。「風評」というからには「風のうわさ」ということであり、「根も葉もないでたらめ」ということだろう。つまり「真実であるかどうか証明されないまま、あるいは信頼するに足る根拠も示されないまま流布されている情報」ということだ。ならば、こうした「風評」を作り出し、流しているのはいったい誰なのか。正確な数値も発表せず、パニックを防ぐという名目のもとに情報を隠蔽し、根拠も曖昧なままに「安全です」と主張している当局(東電、政府、学者など)ではないのか?
 風評による被害というものがあるとして、その加害者とは誰なのか。本当に安全かどうか曖昧なものを買わない消費者か? とんでもない話だ。消費者には自由選択権がある。「暫定基準値をオーバーせずに当局によって安全だとされた生産物を購入しない消費者は、復興に協力しない非国民だ」というような風潮が少しでもあるとしたら、それはすでに逆差別であり、生産者は逆に消費者に対する加害者となるだろう。生産者であろうが消費者であろうが(本来これらは“生活者”というひとつの立場にすぎないが)、被害者・加害者間のこうしたシーソーゲームに加担してはならない。
 生産者が今こうむっているのは、風評被害などではなく、原発事故被害なのだということを肝に銘じておく必要がある。原発事故の被害はもちろん消費者だって相応にこうむっているのだ。したがって、正確な情報が、漏れることも遅れることもなくきちんと公開され、安全かどうか消費者が自ら判断できる材料が出揃うまで、「風評被害」という言葉は使うべきではない。風評の被害者は生産者であり、加害者は消費者であるという構図は、補償責任を逃れたり、最小限にとどめたりするために当局にとって都合がいいだけだということを忘れてはならない。
 生産者が今訴えかけるべき相手は消費者ではなく、東電であり政府なのだ。汚染され、生産に適さなくなってしまった農地や漁場に対する補償を求める相手は明らかだ。消費者に求めるのは筋違いである。タレントを呼んでイベントをやっている場合ではない。当局による補償が十分得られないなら、訴訟を起こす必要もあるかもしれないし、そうした補償が得られる、あるいは裁判が結審するまでの間の場つなぎとして、義援金の支給やその他の二次的補償制度を要求しても誰も文句は言わないはずだ。

■消費者は不買運動を起こすべし
 消費者の方も、安全かどうか極めて怪しげなものを無理して買うこと以外に、いくらでも復興支援の方法はあるはずだ。むしろ消費者としては、安全確認がとれていない生産物は購入しない、あるいは、行政から押し付けられた基準値自体が信頼するに値しないなら、消費者自らが安全基準値を設定し、それをオーバーしている生産物は購入しないという「不買運動」を起こすべきである。それは、生産者に対する非協力のように見えるが、実は逆なのだ。なぜなら、当局に対して早急かつ正確な情報公開と迅速な事故対策を促すことになるからだ。したがって、消費者としては、生産者に対する単なる同情から、「安全かどうか曖昧なものでも、そこそこ売れてしまう」という状況を作り出してしまうことは、かえって情報の隠蔽を促し、問題の根本的な解決を先送りすることにもなりかねない。

 もちろん経済とは、ものを作って売り、それを買うという単純な活動によって成り立っている。買い手がいないものをいくら生産し販売しても経済活動は成立しないし、いくら金を持っていても市場に出ていないものは消費できない。しかし、売れるものでなければ作らない生産者や、たいして買いたくないものも仕方なく買う消費者ばかりがいくら増えても、経済はいっこうに成熟しない。やみくもな生産、やみくもな消費は作為的に作られた経済であることを忘れてはならない。そのような経済は極めて脆いものであることは、バブルの崩壊によって立証されたはずである。そんな経済は国力の目安にはならない。
 何をどのように作り、何をどのように買うのかといったポリシーもなく、量や金額だけが評価基準となり、生産者も消費者も煽られた受身の状態が続けば続くほど、統制の手が介入しやすくなる。つまり「原子力は安全で経済的でクリーンなエネルギーである」というようなデマゴギーに騙されやすくなる。
 そのように主体性を失った経済活動こそが、原子力推進を許し、結果的に原発事故を招いたとも言えるのである。

不買運動が世界を変える
 ならば、消費者がデマゴギーに騙されることなく、賢く振舞うためにはどうしたらいいだろう。ものを消費することによって成しうる社会貢献、社会参加とはどのようなものだろうか。それはハッキリしている。消費者が成しうる社会貢献は、買うか買わないかの態度決定だ。それ以外にはない。不要なもの、欲しくもないもの、あるいは怪しげなものは買わない。この「買わない」という極めて消極的な経済行為が市場を動かし、世の中を変える場合もある。いわば、買わないことによって無言の抗議をするのだ。
 欧米の消費者運動に「グリーンコンシューマー運動」というのがある。グリーンコンシューマーたちは、地球環境にやさしい製品を扱っているメーカーや販売店をリストアップした「グリーンブック」「グリーンガイド」と呼ばれるものを発行し(日本版もある)、そこに載っている企業の商品以外はどんなに安くても買わないという徹底した不買運動をしている。
 この「買わない(無視する)」という消極的な態度が、ヨーロッパやアメリカの市場全体を確実に動かし始めている。このグリーンコンシューマーの数は現在ヨーロッパでは消費者全体の20%、アメリカでは10%に達している。企業にとって10〜20%のシェア・ダウンは致命的である。そこで企業はもはや彼らの意見を取り入れたモノ作りをせざるを得なくなっている。つまり、グリーンブックに載ることが企業のステータスとなるほど、グリーンコンシューマーが市場に対する影響力を持つに至っているわけだ。ちなみに日本ではグリーンコンシューマーの数は現在まだ1%にすぎず、残念ながら市場を動かすまでに至っていない。

 ついでだが、南アフリカアパルトヘイト廃絶への道に一役買ったのは、世界の不買運動だったことも、一言付け加えておこう。
 人種隔離政策をとっていた当時の南アフリカでは、黒人だけがポラロイドカメラで撮影した写真付きのIDカードを持たされていた。僻地に隔離され、街へ出稼ぎに行かなければならなかった黒人たちは、そのIDカードの所持を義務付けられていた。
 そうした差別政策に反対する世界中の人々が、まずポラロイドカメラを買わなくなった。そして、南アフリカに進出している「バークレイズ銀行」の口座を次々に解約し、バークレイズの小切手を受け取らない店も増えた。世界の人々はさらに、大手石油会社の「シェル」のガソリンも買わなくなり、「シェル」 は対抗手段を講じたものの、結局南アフリカから撤退した。
 ボイコット運動が世界的な広がりを見せる中、当時のデクラーク大統領は「外国の圧力には屈しない」と強気の演説を国会で行った。これが引き金となって南アの株式市場は暴落、外資系企業は次々と撤退を決めた。「コカコーラ」「フォード」「IBM」 など、アメリカの155の企業、イギリスの98の企業、その他100の企業が撤退した。やがて南アへの投資家はいなくなってしまった。ボイコット運動が南アフリカ政府を追い詰めたのだ。声高に反対を叫んだわけでもない地道な消費者運動が大きな政治的圧力をかけることに成功したのだ。
 たとえばもし、相変わらず情報を隠蔽し続け、公表したとしても時間差をつけたり小出しにしたり、中身を矮小化したりしている東電や日本政府に抗議する意味から、世界中の消費者が日本製品のボイコット運動をしたら、どういうことになるのか、想像してほしい。

■生産者も消費者も、ともに立ち上がる時
 確かにボイコット運動は生産者にとっては手厳しい打撃となる。特に放射能被害を受けた地域の生産者にとっては致命的かもしれない。放射能汚染の数値が正確に計測され、生産物への表示が義務付けられたら、なおのこと売れなくなるかもしれない。そこで「風評被害に負けるな」となるわけだが、だからといって曖昧にしておいていいわけでも、ましてや表示をごまかしていいわけでもない。どんなに汚染数値が低かろうが基準値を下回っていようが、売れなければ生産者にとっては被害にちがいない。ただし、風評被害ではなく原発事故の被害である。そこを、「安全だから率先して買ってくれ」と消費者に対して消費を煽るなら、それは自由選択権の侵害になりかねない。したがって、暫定基準値を超えた生産物だけが出荷停止となり、出荷停止となったものだけが補償の対象となるのだとしたら、それは放射能被害に対する補償ではあっても、経済被害に対する補償ではない。経済被害を放射能の数値で測ってはならない。
 今、汚染地域の生産者は、究極の二者択一を迫られているのかもしれない。すなわち、あくまでその土地にとどまって風評被害と戦うなり汚染除去に取り組むなりするか、あるいはさっさと見切りをつけ、安全な土地に移って出直すか(今の日本に完全に安全な場所があればの話だが)。
 これは、人間の命を救うのか、それとも土地(環境)を救うのか、という二者択一にも通じる。本来なら、人間の命も環境もイコールのはずだし、どちらも救わなければならないはずだが、そうもいきそうにないのが、現在私たちが置かれている状況の深刻さでもある。
 事態は極めて差し迫っている。何となく「母体をとるか胎児をとるか。両方救うのは厳しい」というような状況にも似ている。母体が危機に瀕し、そのことが胎児の生存も脅かしている場合、両方救うことが難しければ、医者はどちらかを選ぶことを迫られる。もちろんここでいう母体とは土地であり、胎児とは私たち人間だが、幸いにしてこの胎児には意思があり、自分で考え、自分で決断し、自分で行動できる。母体を救い、自分も助かるために、多少の危険を覚悟で踏ん張ることもできるし、さっさと母体を諦めて、自分だけでも助かる道を選ぶこともできる。どちらにしても断腸の決断だろう。私たちは当事者の決断を尊重しなければならないが、共倒れだけは避けなければならない。共倒れになりそうだったら、勇気をもって母体を捨てる覚悟を決めなければならない。もちろん、母体をそのような危機に陥れ、自分たちの命も脅かした「真の加害者」にきっちり責任をとらせる覚悟もだ。そして、そうした断腸の決断をした人間を、温かく迎え入れる覚悟もだ。
 消費者同様、生産者もまた主体性を取り戻し、ともに立ち上がる時である。