「科学的判断」と「政治的判断」を混同してはならない

デンマーク風力発電が抱える問題点
 私はデンマークという国に行ったこともないし、デンマーク人の知り合いがいるわけでもない。それを承知の上で、デンマークのエネルギー政策についてこのブログで紹介してきた。それは、かつて中曽根元首相が「不沈艦」と呼んだ「日本丸」が今、舵取りに失敗して沈没しかけており、今までとはまったく違う方向へと大きな転換をしなければ助からないという認識から、諸外国の例がそうした方向転換に少しでも役立つなら、という思いからにほかならない。
 さりとて、デンマークの例が完璧で理想的なものであると盲信していたわけではなく、資源弱小国である同国が、わずか30年足らずの間にエネルギー自給率1.5%から100%にまで成長したのには、数字だけでは片づけられない事情があるだろうなとは思っていた。いかなる物事にも、表と裏、プラス面とマイナス面が等分にあるというのが常だからだ。

 そんな矢先に、「『環境問題』を考える」(管理者:近藤邦明)というサイトを発見した。
http://www.env01.net/

 このサイトによる近藤氏のレポートは、他のサイトにも度々紹介されているようで、私が近藤氏の「デンマーク風力発電の実像」というレポートを見つけたのは、以下のサイトからであった。

「ちきゅう座」http://chikyuza.net/n/

 このレポートの中で、近藤氏は、“National Wind Watch”のHP(http://www.wind-watch.org/)の“Key Documents”のレポート“A Problem With Wind Power:Eric Rosenbloom . September 5, 2006”からⅠ章の抄訳を紹介するというかたちで、デンマーク風力発電が抱える問題点を列挙している。この内容を無断転載することは禁じられているため、私なりに論点をまとめると、近藤氏が指摘する風力発電の問題点とは、おおむね次のようなものである。

○発電技術としての不安定性
○エネルギーロス(エネルギー変換効率)の問題
○平均設備利用率が低い(風があるときは動かせるが、吹いていないときは動かない。また風が強すぎるときも止めなければならない)
○重大な環境に対する影響、発電能力不足、製造コストが高い
風力発電の不安定性や発電能力不足を補うために、従来型発電所を減らせない。
風力発電は風次第で、発電過剰のときは余剰電力を廉価で輸出しなければならないし、反対に不足のときにはより安定的な電力を輸入しなければならない。
○強風による風車の破損や、昆虫の死骸による出力低下、洋上風力発電の場合は塩害による出力低下が問題となる。
○多くの風力発電装置を送電線網に接続すると、送電線網が不安定になる。
風力発電装置が不安定であり、予測不可能の激しい変動を伴うものであり、結果的に従来型のエネルギー利用を削減できないならば、風力発電装置の製造、輸送、建築にかかるエネルギー分だけ環境負荷を増やすだけにもなりかねない。

 近藤氏は、こうした問題点を論拠として、「自然エネルギー発電に対して、ごく常識的な科学的な判断として、とても電力供給技術として大規模に導入することには科学的に合理性が無い、あるいは技術的に無理だ」と判断している。
 さらに続けて氏は、次のような指摘も加えている。
風力発電の持つ本質的な技術的問題はデンマークでも解決できていないことがわかりました。ではなぜ、デンマークでは消費電力の20%もの電気を風力発電で賄えるのか?それは技術で解決したのではなく、帳簿上の数字の魔法だったようです。」
デンマークでは電力消費量の20%に見合う量の風力発電電力を一応発電していますが、国内で変動を処理できない8割程度は海外に廉価で販売し、その代わりに安定電力を購入して自国用に消費しているのです!」

■科学的判断がとどまるべき領域
 近藤氏のこのレポートは、日本が今後、今までの原子力推進政策から転じて、再生可能(自然)エネルギーの開発・普及へと大きく舵取りするなら、必然的に遭遇するであろうさまざまな問題点を先取りして指摘してくれているという点で、大いに参考になるだろう。
 それを了解した上で、あえて私は、以下の二つのことを近藤氏に申し上げたい。
 まずひとつは、一国のエネルギー政策といった問題に向き合ったときに、科学(あるいは科学者)がとるべき態度、あるいは判断とは何か、ということである。
 もうひとつは、日本のエネルギー政策を語る上で、科学的・技術的実現可能性を持ち出す前に、もっと根本的でもっと重大なこととして、国民の合意を得ぬままに政策決定がなされてきたという、民主主義の根幹にかかわる問題が真っ先に取り上げられるべきであり、その順番を逆にするなら、それは政治的判断と科学的判断を混同することにもなりかねない、ということである。

 まずひとつ目からいこう。そもそも、科学的態度、あるいは科学的判断とは何だろう。科学者(あるいは、科学的立場をとる人間)が、ある事象を取り上げて、それを科学的に論証しようとする場合、自分なりの仮説(仮にA説としておく)を立てて、それが正しいことを立証できる根拠を可能な限り集めることになるだろう。集めた根拠に論理的矛盾がなく、実験や調査によるデータにも充分信頼性があるなら、やがてA説は支持され、科学的な常識へと高められるだろう。そこで、A説とまったく相反する内容のB説が提示されたとする。B説にも多くの論拠が用意されていて、それに矛盾がなく、データ上も信頼できるものだったとする。A説が正しいのか、それともB説か。ここに科学的な葛藤が生じる。やがてA説に関する決定的な反証が現れ、B説が有力となる。これが科学的な進歩だろう。
 ここで私が何を言いたいかというと、ある事象に関する科学的な仮説が複数あるとしたら、決定的な判断要因が提示されないうちは、すべての仮説に等分の信憑性があると考えるのが、科学的態度、科学的判断であるということだ。仮に専門科学者の9割がA説を支持し、B説の支持者が1割しかいなかったとしても、A説とB説には等分の信憑性があると判断するのが科学的態度であるということだ。ここでもし、科学的判断に数の論理を持ち込んで、A説が有力であると考えるなら、それは科学的判断を越えて、政治的判断に近づく。科学に多数決の論理を持ち込むべきではないのだ。
 たとえば、原子力放射能に関しては、諸学者の間であまりにもかけ離れた両極端な学説が拮抗しているようにも感じる。そんな中で、相対する学説を根底から覆すようなさしたる科学的根拠も示さないまま、「年間20mSVの被曝は、健康に問題ない」と言い切ってしまうような学者は、もはや科学的判断を手放して、純粋に政治的判断を下しているにすぎないと言わざるを得ない。

■「政治的判断」を「科学的判断」にすり替えてはならない
 したがって、近藤氏が自然エネルギー発電に対して、発電方法としての不安定性や効率の悪さ(コストの問題)や、いわんやデンマークにおける電力の輸出入の問題(これは科学ではなく、政治・経済の問題だ)を論拠とし、それを「ごく常識的な科学的な判断」として、「とても電力供給技術として大規模に導入することには科学的に合理性が無い、あるいは技術的に無理だ」と断定してしまうとしたら、それは「科学的な判断」の名を借りた「政治的判断」になりかねない。
 もちろん、科学者が政治的判断に関与してはいけないと言っているわけではない。こうした深刻な国難が起きているときには、科学者も大いに政治的判断に参加すべきだと思う。しかし、さも科学的な立場で発言しているかのようにして政治的な判断を下すのは倫理にもとる。
 近藤氏がもし、あくまで科学的立場にとどまるなら、「デンマーク風力発電にはさまざまな科学的・技術的問題点がある」という指摘にとどめるべきなのだ。さらに、もっと気の利いた科学者だったら、それらの問題点に対する解決策も提示しているところだろう。それを、帳簿の付け方をあげつらって「数字の魔法」であると断罪したり、自然エネルギー発電に対して、「ごく常識的な科学的な判断として、とても電力供給技術として大規模に導入することには科学的に合理性が無い、あるいは技術的に無理だ」と断定してしまうなら、それは「科学的判断」と「政治的判断」のすり替えにほかならない。

 誤解を怖れずにやや乱暴な言い方をするなら、デンマーク国民にとって、再生可能エネルギーによる発電が、どれだけ科学的・技術的困難さを伴おうが、そのことが再生可能エネルギーを自国のエネルギー政策の根幹とする決断をゆるがす要因にはなり得なかったのだと思う。このことが、私の申し上げたい二つ目の論点となる。つまり、デンマーク国民は自国のエネルギー政策に関し、科学的判断をしたのではなく、政治的判断をしたのだ。その何よりの証拠が、デンマーク国民はエネルギー政策決定にあたり、「反原発」を掲げるのではなく、「エネルギー政策を国民が決める権利」を主張したという点である。

■私が「電力固定価格買取制度」に反対するわけ
 私は、菅総理が退陣の交換条件のようにして、「再生可能エネルギーの電力固定価格買取制度」を急いで成立させようとしていることには反対である。しかしその反対の根拠は、近藤氏とはまったく別のものだ。私が反対しているのは、デンマーク国民が、エネルギー政策を自らの決定権へと引き寄せたのは、特定の法的制度に反対したからではない、という意味においてである。
 今回の日本の原発事故の悲劇は、高濃度の放射能汚染であるということと同時に、政界・財界・学界・法曹界・マスコミが結託して作り上げてきた社会的な「構造汚染」であるという点にある。もちろんそこに、国民の意思や判断など存在しようはずがない。したがって、エネルギー政策をめぐるそうした社会構造には一切メスを入れることなく、その構造の上に再生可能エネルギーを載せるとしたら、再生可能エネルギーがどれほど理想的なエネルギー政策だったとしても、原子力と同じ結果が出ることは明らかだろう。再生可能エネルギーをめぐる新たな「汚染構造」が出来上がるだけの話だ。極端な話、そうした構造の中で、たとえば「太陽エネルギー兵器」の開発といった方向に事態が進んだとしても、何ら驚くにはあたらない。こうした事態は、純粋に政治的な判断からくるもので、「ごく常識的な科学的な判断」とはいっさい関係がない。
 つまり、もっともクリティカルな問題は、国民無視の場でそうした政策が決定されてしまうという点なのだ。日本は、もっとも基本的な民主主義でさえ、まるっきり実現できていなかった、ということなのだ。
 したがって、国民的合意のないまま、「電力固定価格買取制度」といった法案だけを通そうとするなら、それは「合意なき政策」であり「目的なき手段」ということになる。それは、はっきりとした目的地も示さないまま、ひとつの交通手段だけを先に決めてしまうようなものだ。つまり、なぜ何のための法案か、それによって結局何を実現したいのかさっぱりわからない、という事態なのだ。
 脱原発であろうが、再生可能エネルギーへの転換であろうが、あるいは原発推進であろうが、国民的合意のないまま、やるべきではない。ただし、今の日本政府に国民主権を前面に出せと言っても無理だろうから、ここは国民の方から狼煙を上げるしかない。つまり「反原発」でもなく「脱原発」でもなく、「これからのエネルギー政策を国民が決める権利」を主張するのだ。その権利のもとに国民が決めた政策にのっとって、その政策を実現する上でどのような具体的な法案を整備していくかが問われるべきなのだ。この一連の手続きは、はしょることも順番を逆にすることも別のものに置き換えることもしてはならない。

■基本政策が決まれば実現手段はいくらでも替えられる
 科学的な不合理性や技術的な困難さが存在することは、国のエネルギー政策の根幹を判断する上での決定的な排斥要因にはなり得ない。そのことは、原子力がいかに科学的に不合理で、技術的に無理だったかを見ればわかるはずだ。それでも今までの日本(国民ではない)が、原子力一辺倒でやってきたのには、科学的合理性や技術的実現可能性とはほとんど無関係な政治的意図があったからに他ならない。もちろん、そうした無理・無謀を押し通してきた結果が、今回の原発事故であることは言うまでもない。
 したがって、今回はもちろん最終的な政治的判断を下すにあたって、科学的・技術的なファクターを充分慎重に検討する必要がある。たとえば今ここに、国のエネルギー政策の大きな方向性を決定するA案とB案という、まったく異なる二つの路線があったとしよう。そこで、B案の方に相当数の科学的・技術的な排斥要因があったとする。ところがその要因をはるかに凌ぐ決定的な排斥要因がA案の方にある場合、なおかつ、さしあたってはC案と言える代替案が見当たらない場合、B案の方を選ぶという政治的判断があったとしても、何ら不思議なことではなく、そこに何らの「魔法」もない。
 今回の日本の場合、A案にあたるのが原子力であり、B案にあたるのが自然(再生可能)エネルギーだった、というだけである。そして、国のエネルギー政策を大きく転換させた1980年代のデンマークの事情もまったく同じだったはずだ。しかもここで何よりも重要なことは、デンマーク国民自らが、「反原発」を唱える代わりに「エネルギー政策を民衆が決める権利」を勝ち取るというスローガンのもとに、極めて自発的で粘り強く実証主義的な市民運動の末に、国に大きな政策転換を促したという点である。
 そうした精神を持つデンマーク人気質からするなら、考えられる限りの対策を講じてもなお風力発電が実証的に言って実用に供さないと判断したなら、自らの決断でもって次なるエネルギー政策への転換に乗り出すに違いない。もしデンマークがそうしないのであれば、その時は大いに批判の対象にすればいいし、日本はそれを反面教師にすればいい。しかし、今のところデンマークにそのような動きがないのは、風力発電にいろいろと問題はあるものの、「自分たちは原子力推進へは戻らない」という基本政策を堅持していることを表していると捉えるべきだろう。そこに科学的合理性があろうがなかろうが、技術的な困難さが伴おうがそうでなかろうが、それはあくまで二次的な問題なのだ。

 もちろん、デンマークは隣国と国境を接していて、ヨーロッパの文脈の中にあるために近隣諸国との電力のやり取りがしやすい、という事情もあるだろう。その点島国である日本はそういうわけにいかない分、デンマークよりも厳密なエネルギー自給体制が要求されるかもしれない。そうしたことを加味した上で、日本国民(日本政府ではない)が、自然(再生可能)エネルギーを選ばないというのであれば、それに文句をつけるわけにはいかない。とにかくいちばん重大な問題は、今までの原子力推進政策が、国民の合意なき政策だった、という点である。
 もし仮に、日本国民が原子力にNOと言い、今後、再生可能エネルギーを国のエネルギー政策の根幹に据えて行くと政治的判断を下した場合、それに伴う科学的・技術的問題を、ただあげつらって反対するのか、それともその問題を解決すべく尽力するのかは、科学者として大いに試されることになるだろう。