村上春樹の回心

 今回はまず、私自身の「告白」から始めなければならないだろう。この震災とそれに続く原発事故が起きるまでは、正直なところ、私は原子力の問題について、それほど熱心に考えるタイプの人間ではなかった。ただし、まったく関心がなかったわけではない。むしろ一般の人よりは関心があったのではないかとも思う。どの程度かと言えば、たとえば、生前の平井憲夫氏の講演会に足を運ぶ、といった程度の関心だった。だからといって、特別熱心に原発反対運動をしていたわけでもないが、かといって、仲間内でその手の話題が持ち上がれば、自分の意見を言うぐらいのことはしていた。
 そうした中途半端なスタンスでいたのには、ひとつ訳があるのだが、それは、自分の周りにけっこう熱心な原発がらみの社会活動家がいて、その人たちの活動ぶりを傍で見ていると、「ああ、原発に関してはこの人たちに任せておけばいいな」といった、やや無責任で手前勝手な受け取り方をしていたふしがある、ということだ。自分独自の社会的スタンスを模索していた当時の私にとっては、すでに他人がやっていることに同調するよりも、むしろ誰もやっていないこととは何かの方に、より関心があったという事情もある。
 いずれにしろ、他人任せにしておけばいいとタカをくくっている裏には、「まさかこれほどまで悲惨な状況には至るまい」という一種の慢心があったということでもある。最近、実際に原発反対運動をかなり熱心にやっていた人から、同じ感想が飛び出して、驚いたことがあった。その人物も、「危険だから廃止せよ」という思いで原発反対を訴えていたが、まさか本当にこれほどの事故が起きるとは思ってもいなかったというのだ。
 おそらく、今までほとんどの日本人がこうした慢心の状態にあったのだろう。しかし、もはや目を覚まさざるを得ない。今の日本人に必要なことは、アウグスティヌス的回心とも言うべきものかもしれない(もちろん、宗教的な意味合いを抜きにしてだが)。
 アウグスティヌス本人の告白するところによれば、それまでの彼は「肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」という。しかしあることをきっかけに聖書から「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」という啓示を得てキリスト教に回心する。
 これを、現在の私たちに置き換えるなら、今までの私たちは「物質文明に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」が、これからは「まったく新しい規範を身にまとい、欲望をみたすことに心を向けてはならない」ということになるだろう。

 私自身も含め、いわゆる芸術や文学といった表現活動に携わる者の中でも、今回の国難をきっかけに、このような「宗教的回心」ならぬ「社会的回心」を経験する者は相当数現れるのではないだろうか。作家の村上春樹氏が6月9日、カタルーニャ国際賞を受けて行ったスピーチの原稿を読むと、どうやら彼も「社会的回心」を果たした一人であるだろうことがうかがわれる。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html?toprank=onehour

 それまでの氏は、どちらかといえば「ノンポリ」で、恋愛小説や冒険小説など、悪く言えば当たり障りのない作品を書いて、良くも悪くも世界的に評価され、多くの読者を獲得してきた。私はそうした彼のキャリアを、文才がありながらも、思想的に脆弱なためにもったいないな、と見てきた。
 ところが、今回のスピーチでは、自己反省に基づくかなり直接的な文明批判、体制批判が成されていて、物議を醸しているようだ。『我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。』というくだりには、氏の自己反省がよくあらわれてもいる。もちろん、戦後一貫して核に対する「ノー」を叫び続けてきた日本人はいくらでもいる。残念ながら少数派だったかもしれないが、その他の大多数の日本人がそれに同調できなかった、という点では村上氏の言っていることは正しいだろう。

 私は村上氏のそれほど熱心な読者ではないにしろ、長編・中編・短編含め、いくつかの小説作品は読んできた。しかし、ある時期、彼の手の内が見えてしまったと思ったときから、読むのをやめてしまった。小説の最初と最後で、結局のところ、何も起こらない、何の変化もない、主人公とそれを取り巻く登場人物群の間で、さまざまな紆余曲折はあるものの、まるで双六のように、結局最後にはすべてが振り出しに戻ってしまう、という印象しか持てないと感じたからだ。私はそのことを、ある任意の作品を取り上げて、論理的に立証することができるとさえ思ったが、そんなことに労力を割くつもりはない。
 大江健三郎氏が指摘するように、小説の役割とは、その作家が考える「世界モデル」を物語の形で提示することだと思う。小説のある登場人物が、このような事態に至ったときに、このように考え、このように行動し、それによってこのような結果が出た、という物語を詳細に語ることそのものが、ある種の世界認識モデルをまるごと提示することになる。それを読んだ読者は、「ああ、なるほど、人間というものは、こういう場合にこのように考え、このように行動するものなのか。それによって、このような結果が現れ、世界はこのように変わるものなのか」ということを受け取る。この「変わる」という点が重要なのだ。ある人物が存在し、それによって世界はほんのちょっとでも変化する。そこにこそ共感や感動が生まれる。それこそが小説の醍醐味であり、存在意義だろう。だから、物語の最初と最後で何も変わらない、何の変化ももたらされない(少なくともそう感じる)「村上ワールド」は、世界モデルとは言い難い、と私は感じてきた。
 氏はこのスピーチの中で、「無常」という概念を引き合いに出して、日本人の古来からの精神性に触れている。もちろん氏は「常なるものなど、何一つない。この世のすべてが移ろう」という字義通りの意味で「無常」という言葉を使っている。そういう氏でありながらも、今までの小説作品では、最初と最後で何ら変わりのない堂々巡りの世界を描いてきた。小説の最初と最後で、ほんの少しでも何かが変わって見せてこそ、「無常」の世界を表したことになるはずだ。実際に氏は、スピーチの中で日本人が好んで愛でる桜の花や蛍や紅葉を例示して、日本人がそうした儚い存在に見い出している「無常」の概念を説明している。ところが氏の小説の中では、最初咲いているかにみえる桜の花が、最後に散ってみせているようで、実は散っていない、というような世界を描いている。咲いた花がやがて散る、といった微妙な変化の中にこそ「無常」があるはずなのだが・・・。
 それをややシステム工学的に言えば、ある「システムA」というものがあるとして、そのシステムAに「データa」というものを入力した場合、「データa′」あるいは「データb」に変換されて出力されるとする。この場合、「データa」から「データa′」あるいは「データb」への変換プロセスが「システムA」の機能ということになるが、もし「システムA」に入力された「データa」が、何の変換もされずに「データa」のまま再出力されたとすると、「システムA」は何も機能していないことになる。
 村上氏の小説を読んだときに私が感じたのは、まさにこの「機能不全を起こしたシステム」の印象だった。したがって、氏の小説を読んだ後には、ある種の「印象」あるいは「心象」といったものは受け取れても、「結論」あるいは「変化」といったものは受け取れない、というのが私の感想だった。もし仮に、村上氏がまさにこの「機能不全を起こしたシステム」について、意図的に小説の形で表現しようとしたのなら、これからは「機能回復したシステム」について描くべきだろう。それが村上氏の作家としての回心のはずだ。特に、日本全体が「機能不全」を起こしている現在では、なおさらである。
 「壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。(中略)
 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げなくてはなりません。」
 この言葉に、作家としての村上春樹氏の並々ならぬ回心があるはずだ。氏の次回作に期待したい。