日本の復興に必要なのは価値の大転換である

 毎年六月に地元で開かれる祭りの実行委員になってくれないかと頼まれた。この震災騒ぎに巻き込まれるようにして、その祭りの中心にいた長老格の人物が亡くなられ、祭りの求心力を失ったまま、今年も開催しようということになった。そこで私にもお呼びがかかったわけだが、一参加者、祭りの盛り上げ役として今までお付き合いしていた私は、実行委員という柄ではなかったので、オブザーバーとして個人的に影でいろいろアドヴァイスすることにした。
 さっそく最初に提案したことは、女性を祭りの中心に据えること。祭りには本来、男性より女性、大人より子ども、現役よりご隠居さん、という具合に、普段は社会の中心ではなく周縁にいて影に隠れている存在を、ことさら前面に出して主役にすることによって、崩れている社会構造のバランスを象徴的に元に戻すという働きがある。ところが、祭りといえば、勇壮に神輿を担ぎ、酒を浴びるように呑み、夜通し騒ぐ、といった男性的(動的)な側面が強調されがちだったりする。
この祭りもご多聞にもれず男性性が強すぎる嫌いがあった。そこで私は、祭りの本来の役割を取り戻すためにも、実行委員に女性を積極的に動員することを提案したわけだ。その提案をすると、友人でもあり中心となる実行委員の一人でもある男性は、今までにない文化だというように、ややキョトンとして戸惑いを隠せない様子だった。

 この祭りの今年の成り行きはさて置き、祭りの本来的な役割である「中心と周縁の逆転」「一方の極に偏りすぎている社会のバランスを引き戻す」といった作業は、実はこの震災を経た今の日本にとっても、いちばん必要とされていることではないかと思う。
 先日、堺屋太一氏がテレビで言っていたが、日本の復興にとって重要な条件は、官僚制および一局集中の廃止だという。極めてまともな意見だと思う。「親方日の丸」の官僚の世界と庶民の暮らしには、今まであまりにも温度差がありすぎた。そして私もさんざん主張してきたように、何もかも東京(あるいは大都市)に集中させようという文明のあり方は、あまりにもリスクが高い。したがってこれからは、官僚中心主義ではなく、庶民中心主義であり、同時に主要都市から地方へと力点を移すべき時なのだ。

 これは以前から考えていたことだが、たとえば社会が男性優位のまま発展してしまうと、その行く末は、人命よりも経済性を重んじるというような極端な方向へと進みかねない。これがもし男性性と女性性のバランスがとれている状態、あるいはむしろ女性性が優位に立っている状態だったら、原子力エネルギーなどというような、およそ生命を脅かし危機にさらすようなものには手を出さずにこられたのではないかとさえ思う。正確なところはわからないが、原発に反対する市民運動なども、女性(特に、子どもの命を護る立場の主婦層)がしっかりと下支えしているという印象を抱く。男性のやや行き過ぎたハメのはずし方も、懐の深さで大目に見る反面、子どもの命を脅かす対象に対しては、自分の命を賭しても敢然と立ち向かうといった両面性こそが女性性(あるいは母性)の特徴でもあるだろう。

 何度も繰り返してきたことだが、重要なことなので念を押しておこう。震災前の世界と震災後の世界は、まったく違う。いや、同じであってはならない。震災前と同じ方向に足の先を向けての復興など、絶対にあり得ない。「復興」という名のもとに、震災前の価値観で日本を立て直そうとするような動き(たとえば、この期に及んで原子力開発をさらに推し進めようとするような動き)に対して、私たちは敏感に反応し、「そっちに行ってはならない。むしろ、こっちに行くべきだ」と新しい道を示す必要があるだろう。そのためにも、今までの男性優位の価値観から脱却し、むしろ女性を前面に押し出すぐらいのつもりで、崩れてしまったバランスを引き戻しておく必要がある。先の友人のように、今までにない文化だといって、キョトンとしている場合ではないのだ。今までに経験がないからこそ、試してみる価値があるのだ。そのぐらい、まったく新しい方向に進むのでない限り、日本の復興はあり得ない。そうした意味からも、日常的な価値を逆転させ、偏ってしまったバランスを本来あるべき状態に戻す働きのある「祭り」が果たす役割は、今後ますます重要になってくるだろう。