被災地探訪(福島県相馬市)

 東北自動車道・福島西インターを降りて115号線(中村街道)を東へ向かう。この道は、よくある山里の風景が続く道だ。途中、霊山(りょうぜん)付近で休憩に寄ったドライブインでは、家族連れがアイスクリームを頬張る姿が見受けられた。当然だが、福島ナンバーの車ばかり。どこにでもある田舎の休日風景である。とても未曽有の災害が起こったとは思えない、のどかな空気が流れている。
 やがて車は相馬市の中心街に入るが、震災の爪跡はまったくと言っていいほど感じられない。ここも地方都市にはよくある風景が続く。普通に営業しているコンビニ、ファミレス、スーパー・・・。郊外型大規模店舗の間を縫うようにして住宅街が点在する。ところどころ、瓦が落ちた屋根にブルーシートがかけられている光景があるものの、それ以上の被害は見て取れない。

 ところが、国道6号線を横切り、74号線に入ったあたりから、様相は一変する。突然、未開拓の原野が目に飛び込んでくる。ここは本当に日本なのだろうか。東北の海岸沿いに、ある日突然巨大な湿地帯が出現したかのようだ。一面の瓦礫。打ち上げられて路肩に乗り上げた船・・・。
 もう少しで海岸沿いに出るだろうというところで、通行規制のバリケードに阻まれた。脇に車を停めて外に出る。時間が止まったような静寂。風だけが強く吹き抜けていく。震災からすでに50日が経つが、いまだに津波の傷跡が生々しい。しかし、住民はちらほら戻ってきているようだ。誰もがたんたんと瓦礫の片づけをしている。話しかけるのも憚られるような重い沈黙が流れる。
 片付けるために積み上げられたのだろうか、それとも津波によって自然に運ばれて溜まったのだろうか、ところどころに瓦礫がうず高く積まれていて、まるで巨大なオブジェのように見える。根こそぎ横倒しになった松の木が、破壊の凄まじさを物語っている。民家の庭先だったのだろうか、スイセンの花が咲いている。潮水に晒されたはずなのに、植物は逞しい。そういえば、阪神淡路大震災以来、スイセンは災害復興のシンボルとなった。
 おそらく自宅へ向かうのだろう、ときどき乗用車や軽トラなどが往来する。その中に混じって自衛隊の車両も行き交う。真っ先に片付けられたのは、道路の瓦礫だったのだろう。車両が通れないことには、復興は始まらない。道路は動脈だ。滞った血が流れ始めてこそ、全体が息を吹き返す。
 津波に洗いざらい持って行かれて、跡形もなくなって更地になっている脇で、無傷のまま残されている新築の家屋もある。何が明暗を分けたのだろう。国道6号線も明暗を分ける境界線になっているようだ。道の海側と内陸側ではまったく異なる風景が広がっている個所があり、一段高くなった国道が津波をくい止めた形跡が見て取れる。

 国道6号線から38号線に入り、松川浦を目指す。本来なら、半島に囲まれた穏やかな内海の松川浦だが、入り江の真ん中に取り残された車両や船舶や家屋が点在している光景は異様だ。普段なら、車両がたった一台でも海水に浸かっていたら一大事だろうが、この異様な風景も、だんだんに見慣れてしまう。
 海沿いの道を抜けて、突端近くの漁港に入る。道の両側に立ち並ぶ家屋は軒並み破壊されている。ところどころで、重機がトラックに瓦礫を積んでいる光景が目に入る。
 水産物直売センターというところで車を停める。このセンターも建屋だけが遺され、中身は瓦礫と化している。まぎれもなく、桁外れの破壊が訪れたのだと、思い知らされる。人間の無力さを嘲笑うかのように、ウミネコ座礁した船の上を舞う。センターの外壁に掛けられた時計は2時34分を指していた。そのときの実際の時刻は2時40分。時計が遅れているだけなのか。それとも3.11以来止まっているのか。地震が起きたのは確か2時46分頃。その後に津波が襲ったはずだから、この時計がそのとき止まったとしたら、計算が合わない。津波に洗われたときに、針が少し逆行したのだろうか。そしておそらく、人間の時間も少し昔に戻ったのだろう。

 人間の営みは、いとも簡単に捻り潰された。しかし、地球の歴史の中では、何度となく破壊と創造が繰り返されてきた。ここから始まる再生もきっとあるはずだ。この大いなる生まれ変わりの時に、日本丸という船はどこに向かおうとしているのだろう。