日本人よ、今こそ「炭鉱のカナリア」となれ

 アメリカの作家、カート・ヴォネガットはかつて、「炭鉱のカナリア」理論を唱えた。
 工夫たちは、カナリアを入れた鳥かごを持って炭鉱に潜った。有毒ガスが発生したら、カナリアが真っ先に悲鳴を挙げて失神する。それを見て工夫たちは異変を察知し、炭鉱の外へと避難する。「生きた警報装置」というわけだ。
 芸術家とか作家といった表現者は、炭鉱のカナリアよろしく、世の中に異変が起きたとき、いちはやくそれを察知し、大げさに悲鳴を上げて人々に警告を発する役目である、というのがヴォネガットの趣旨だろう。
 おそらく、どこの国の表現者たちも、今までその役割を忠実に果たしてきただろうと思う。もちろん日本の表現者たちもサボってはいなかった。その警告は、よく聞き届けられたかどうかは別だが。
 ところが、この大震災、津波被害、そして原発事故と続く矢継ぎ早の被災により、今や日本全体が、世界にとっての「炭鉱のカナリア」と化した感さえある。いや、そうならなければならないと、言い切ってもいいのではないか。
 今こそ日本人は世界に向かって、大げさに悲鳴を轟かせ、世界に先駆けて真っ先に卒倒してみせて、「今、私たちが見舞われている惨事は、明日のあなたたちの運命でもあるのです。どうか目をそむけずに注視し、私たちの轍を踏まぬよう、考えを改め、今からしっかりと対策を講じて下さい」と悲痛な叫びを挙げる時ではないだろうか。