原発事故は戦後の後始末を怠ってきたツケである

 何らかのかたちで広島・長崎を経験し、第五福竜丸を経験した人たちで、核の危険性を世界中に訴え、安全で平和な世界を構築しようと、骨身を惜しまずに努力してこられた方々は、日本人こそ核問題における「炭鉱のカナリア」だったはずだという思いが、さぞかし強いことだろう。だからこそ今回の原発事故ほど慙愧の念に堪えない出来事はないはずだ。
 自分の役割に忠義を尽くすそんなカナリアたちの想いに対し、今まで世界レベルの世論は「日本人の核アレルギー」などと揶揄したものだった。しかし、今はどうだろう。今回の事態にやや浮足立つようにして、急いで自国の核施設の安全性を再点検しようとする動きが早くも見て取れる。
 その成否はともかく、日本人が「核過敏症」といったレッテルを貼られてしまうのには、それなりの理由があると、私は見ている。結論から言うと、こうしたレッテルの貼られ方は、日本が戦後の後始末を怠ってきたことに起因しているということである。もっと言えば、今回の原発事故も、戦後の後始末を怠ってきたことへの、ひとつのツケが回ってきたのだと、私は見ている。さらに、このツケへの高い代償の支払いは、今後も続くと見ている。
 こうしたツケが溜まっている典型的な証拠は、日本人が広島・長崎の悲劇を持ち出すと、アメリカ人が反論の常套句として必ずと言っていいほど口を揃えて持ち出す「リメンバー・パールハーバー」という合言葉である。この合言葉の裏には、南京大虐殺従軍慰安婦などの問題に対する日本の態度を受けての国際社会の批判も含まれていることを、忘れてはならない。国の中核を担う者たちの、自国の立場が悪くなるようなことは「なかったことにしておこう」とするような態度が、ともすると「自分たちだけが被害者面するな」といった国際感情を生み出していることは明らかだろう。
「悪いことをしても、ゴメンナサイが言えない日本人」という声が聴こえてはこないだろうか。そんな具合では、国際社会は日本のカナリアたちの悲痛な訴えにも、まともに耳を貸そうという気にはなれないだろう。いや、相手は国際社会だけではない。悪いことをした子どもに対し、大人は胸を張って「ゴメンナサイと言いなさい」と言えるだろうか。「大人だって、悪いことをしても謝らないことがあるじゃないか。特にエライ人ほどそうだよね」と子どもに言われて、説得力のある反論ができる大人が何人いるだろうか。

 曖昧な記憶で恐縮だが、かなり前にNHKのドキュメンタリー番組か何かで、ドイツが先の大戦の後始末として、現在どのような取り組みをしているかを取材した番組があったと思う。その番組において、初等教育の中で、ヒットラーという人物と、そして彼およびナチスが何をしてきたか、問題の本質はどこにあり、それをどう乗り越えたらいいのか、ということを、徹底した討論形式で子どもたちに考えさせる、という授業が紹介されていた。その賛否や効果はともかく、ドイツ人が、二度と再び同じ過ちを繰り返さないために、何をどのように反省し、何をどのように改善すべきかを真剣に討議し、国の未来を担う子どもたちにもその精神を引き継がせようとする試みであろうとみなすことができる。
さて、先の大戦の同盟国である日本はどうだろう。そのような取り組みが国家レベルでなされているだろうか。むしろ国家レベルでなされていることは、そうした精神とは真逆の、隠蔽、言い逃れ主義、責任転嫁、利潤追求主義、人間性の軽視といったことではないか。そうした国家レベルの精神性あるいは体質といったものが、電力会社という高い公益性を担う巨大企業の経営体質にも反映され、その当然の帰結として今回の未曾有の大惨事へとつながっていることは、火を見るより明らかだ。
ツケは溜りに溜まっている。大急ぎでひとつひとつ返していかないと、その代償としてまた別の大惨事がいつ襲ってくるとも限らない、というのが今の日本の現状なのだ。
 私がここで念をおすのもはばかられるほど当たり前のことだが、まず目の前に差し出されている勘定書きへの最初の支払いとして、「ゴメンナサイ。今回の事故は、天災でも想定外でもありません。私たちには、危険なものを安全に取り扱う資格も意志もありませんでした。むしろ安全性や人間性よりも経済性や利益を優先させてきた結果がこれです」という一言から始まるのでない限り、震災後の立て直しなどあり得ないし、次の世代に引き継がせるべき新世界など構築できようはずがない。