デンマーク人精神を日本人に移植する

 3月11日の午後2時46分以来、日本中の時計が止まっている状態かもしれない。しかし、この時計はむやみに動かしてはならない。今は、まず立ち止まり、自分たちの足元をよく確かめ、今までその足先はどちらの方へ向いていたのか、それが本当にこれからも向かうべき方向なのか、そうでないなら、どちらの方向へ足を向けて新たな一歩を踏み出すべきなのかを慎重に考える時だ。この時間をないがしろにしてはならない。
 この「立ち止まって、よく考える」という行為は、簡単なようでなかなか難しい。まず、立ち止まって物思いにふけっているような人間は、傍から見ると、何も行動しない役立たずのように見えるかもしれない。もうひとつ、特に日本人は自分の頭で考えることに慣れていない(考える力がないのではない)ということもあるかもしれない。だから今は、そうした社会的偏見や、教育(自己教育も含め)の不毛さといったものこそを是正すべき時なのかもしれない。

 デンマークでは、フォルケホイスコーレ(国民高等学校)という自由な教育方針の学校の存在によって、国民ひとりひとりが自分で考える力を養い、その結果「エネルギー政策を民衆が決める権利」に基づいて、再生可能エネルギー優先の方向へと大きな国家的舵取りが可能となり、エネルギー自給率100パーセントを達成できた。
 日本がデンマークのこのようなエネルギー政策を手本とし追随するためには、どうしたらよいか。日本人が原子力マインドコントロールから脱却し、デンマーク人の自立心と粘り強さを見習い、自分で考え、自分で決めるという精神を身につけるには、どうしたらよいか。

 ひとつ例題を用いて、それをもとに思考実験をしてみよう。
 たとえば、次のような情報が提示されたとする。

「日本の電力は、現在約3割を原子力に依存している」

 最近よく聞くものの言い方だ。普段なら、「ふ〜ん、そうなんだ」ぐらいの感想でやりすごしてしまうような、単なるひとつの統計的データかもしれない。
そこでまず「ちょっと待てよ」精神を発揮する。そして、本当にそうなのか疑ってみる。何が起きているのか、何が問題になっているのか、この情報の背景にどのような事情があるのか、を考えてみる。
「電力の3割を原子力に依存していると言うが、他の7割は何に依存しているのだろう?」
「その3割の依存は、いつどのような経緯でそうなり、今後はどうなっていくのか?」
そして、問題の尻尾をがっちり掴んで離さないようにする。
この命題のポイント(尻尾)は、「依存」という言葉だろう。

 「依存」と言うからには、「子どもは親に依存している」という具合に、「それに頼らなければ生きられない」といった含みがあるはずだが、私たちは本当に3割分だけ原子力に頼らなければ生きられないのか?
 「子どもは確かに親に依存しなければ生きられないかもしれないが、何かの事情で親がいなくなったら、子どもは生きられないのか。他に頼る対象があれば、困難を伴うかもしれないが、生きられないことはないはずだ」
この論法を、原子力にあてはめてみよう。
「日本の電力は確かに現在3割分原子力に依存しなければならないかもしれないが、何かの事情で原子力がなくなったら、私たちは生きられないのか。他に頼る対象があれば、困難を伴うかもしれないが、生きられないことはないはずだ」

 ところで、今回の原発事故以前には、原子力依存度を今後5割にしようという動きもあった(先日、菅首相が白紙見直しを宣言したエネルギー基本計画では、2030年までに総電力に占める原子力の割合を5割まで高める、としていた)が、そうなると「選択的依存」であって、「それに頼らないと生きられない」という消極的依存ではなく、「あえてそれに、より多く頼る方向へ持って行こう」という積極的意思が働いていることを意味している。これは、国民が意図したことか、それとも誰かが何かの理由でそういう方向へあえて持って行ったのか?
 いったい、私たちは「依存している」のだろうか、それとも「依存させられている」のだろうか?

 それから、この「3割(30パーセント)」という数値である。この割合が多いか少ないか(それともちょうどいいか)、どう感じるかは、個人差があるだろう。
 いずれにしろ、数字が出てきたら、気をつけなければならない。数字はもっともトリックを仕掛けやすいネタだ。数字を示されると、私たちはついつい客観的で揺るがし難い事実であるかのように錯覚する。しかし、特に統計的データは、計算式の設定の仕方で、特定の印象を情報の受け手に与えることができる。情報操作しやすいのだ。
 そもそもこの「3割」という数値は、どのような計算式によって導き出されたのだろうか?
これは、すべての発電所が一年間に発電する総発電量を分母にし、すべての原発が一年間に発電する総発電量を分子にした場合の割合ということだろうか?
 ここで、視点を変えて眺め直し、違う仮説を立ててみることが重要となる。
 これがもし仮に、国民全員が支払った一年間の電気料金の総額を分母にし、そのうち原子力発電に回されるすべての年間費用(維持管理費や自治体への交付金、核廃棄物の処理にかかる費用なども含む)を分子にした場合の割合だとしたら、本当に3割だろうか?
 なかんずく、今回のような大規模な原子力災害が起こり、算出困難なほどの多額の損害賠償が発生し、その金額が国民の支払う電気料金に上乗せされるかもしれないという現状では、もはやこうしたパーセンテージ計算の正確な計算式を設定することさえ困難になってはいないだろうか? いや、こうしたパーセンテージ計算をすること自体も無意味になりつつあるのではないだろうか?

 「原発は発電コストが安い」「再生可能エネルギーは発電コストが高い」といった言説がすでに一般常識のようになっていた(それだけ私たちは刷り込まれていた)が、今回の原発事故を受けて、原子力発電の発電コストに関する試算のやり直しが、民間や海外を含むさまざまな方面で試みられている。それによれば、原発の発電コストは、他のエネルギーに比べて、安いということは決してない。むしろかなり高くつく。
 ここで、根本的(本質的)な問題に立ち帰って考えてみよう。
 もし仮に、原発の発電コストが他のエネルギーに比べて安いとして、それが何だろうか? どのような発電方法を選ぶべきかの基準は発電コストだろうか? デンマークは、再生可能エネルギーの発電コストが原発よりも安いからという理由で原発を廃止し、再生可能エネルギー優先の措置をとったのだろうか? そうではないはずだ。まず、国のエネルギー政策として何を選択すべきか、という国民的意思があり、次にどのような方法論がそれを可能にするかという選択がある(その方法論の中に、コストをいかに削減するかの取り組みもある)という順番だったはずだ。
 こうしたものの順番から言うと、今までの日本政府は、コストが安いという理由からではなく、国策として原子力を推進してきた、というだけの話だ。その中で、原発の発電コストを削減する何らかの方策もあったかもしれない(ただし偽りの成果だったかもしれないが)というだけの話だ。
 もし、今までの日本政府が何らかの原子力優遇政策をとり、これからも国の原子力依存度を増やすべく、さらなる優遇政策をとろうとするなら、そしてそれが国民的意思とはかけ離れているとしたら、それはなぜ何のためなのか?

 「依存」という言葉の吟味に戻ろう。ある言葉が示す概念を正確に把握しようとする場合、その言葉の対立概念を想定してみるのが有効だ。「依存」の反対は「自立」だろう。
 日本の電力の3割が原子力に依存し、残り7割がその他のエネルギーに依存しているならば、電力における自立とは何か? どうすれば、電力(エネルギー)依存から自立したことになるのか?
 電気に頼らない(あるいは過度に頼りすぎない)生活とは?
 個人あるいは自治体レベルでの電力創出(電気の自給自足、地産地消)は可能か?
日本の電力消費が3割削減されたら、原子力は不要になるか?
 原子力による発電とその他のエネルギーによる発電が分離されたとしたら、私たちはどちらの電気を使うことを選ぶだろうか? 原子力発電の方がその他の発電より電気料金が安いとしたら?
 再生可能エネルギーによる発電は電気料金が割高になるが、その差額はそうした新しいエネルギーの開発費用として使われるとしたら?
原子力以外のエネルギーによる電力消費が増えたら、原子力は必然的に淘汰されるだろうか?

 このようにして、私たちは、ひとつの具体的な命題からスタートして、問題の全体像にまで至った感がある。「木を見て森を見ず」の例えがあるが、「一本の木をよく吟味することで、森全体を把握する」ことになったわけだ。
 今私たちが踏んできた思考のプロセスをまとめておこう。

○まずは、立ち止まる。「ちょっと待てよ」
○何が起きているのか、何が問題になっているのか、「本当にそうなのか?」
○命題に含まれるひとつひとつの言葉を慎重に吟味してみる
○その命題のポイント(尻尾)をつかむ
○言葉を正確に定義してみる
○言葉の裏にある背景を想像してみる
○数値が出てきたら、その計算式は何かを考える
○対立概念を想定してみる
○視点を変えて眺め直し、違う仮説を立ててみる
○根本的(本質的)な問題に立ち帰って考える