デンマークに学ぶ脱原発市民運動

■OOAの働き
 デンマークが、第一次オイルショックを機に原子力推進へと傾きかけるのを、「OOA」(原子力情報組織)という全国規模の環境NGOが大きな働きをして原子力放棄へと方向転換させたことはすでに触れたが、この草の根運動によって国策を覆すという流れをどのようにして作り出したのか。その背景にはいったいどのような秘密があるのだろう。
 まず感心させられるのは、1974年にOOAを立ち上げたのが、シグフリード・クリステンセンという青年で、当時の設立メンバーは全員20代の若者だったということだ。彼らは反核のメッセージを非暴力的に伝えるため、平和的なシンボルマーク(黄色い太陽が微笑んでいる周りに“原子力?おことわり”の文字)をデザインし、爾来このマークは、全世界的な反核運動の象徴となっている。

 OOAが次にやったことは、エネルギー問題に関する徹底的な情報提供による啓発活動だ。当時デンマークの一般市民は放射線の人体や家畜などへの長期的な影響といったものに対して無知だったため、OOAはまずリーフレットを配布し、集会やデモ行進、講演や展示会といった平和的な示威運動をはじめる。また、単に原子力に反対するのでなく、風力や水力発電といった代替エネルギーを推進し、OVE(再生可能エネルギーに関する協会。現在は改称してVEとなった)という姉妹団体も設立する。

 OOAは実質的には国内唯一の反原発組織で、政府が原子力発電の推進を始める頃には、すでにキャンペーンを行っていた。「原子力反対」と掲げるキャンペーンではなく、「エネルギー政策を民衆が決める権利」を全面に打ち出したのである。「国民への情報提供組織」として全国130ヵ所に広がる草の根組織であると同時に、少数の戦略家で構成される本部事務局が政府や議会、電力会社への対応を一手に引き受けた。
 76年春には「原発法」が議会を通過したが、OOAは約80万部の新聞をデンマーク中に配布し、法律の施行を止める署名を6週間で17万人分集めた。
 政府が76年に発表した、15基の原発で拡大するエネルギー需要をまかなおうという総合エネルギー政策「EP76」に対し、OOAと若い科学者たちは「AE76」という代替エネルギーシナリオを作成して出版し、さらに15カ所の原発候補地に「エネルギー情報センター」も設け、これらの活動によって国民の支持を得た。

 1977年にはコペンハーゲンからわずか20kmしか離れていないスウェーデンのバーセベックで原子炉が設置され、デンマークでも反対運動が活性化した。それからわずか二年後、スリーマイル島での事故が起こり、デンマークでもその様子を息を飲んで見守ったという。
 78年には原発の候補地からコペンハーゲン、オーフスなどの大都市に向け、5万人以上の参加者が二日間にわたるデモ行進を行った。それ以降もさまざまな政治的活動を続け、その結果、1985年、デンマーク議会は原子力計画の放棄を決めたのである。
 そしてその翌年、チェルノブイリでの事故が起こったことになる。OOAはチェルノブイリの周辺地域での放射線被害の状況について調査を重ね、その結果は、スウェーデンのバーセベック原発の閉鎖運動を支えるものとなった。そしてついにその甲斐もあって2000年5月31日にバーセベックの最後の原子炉が廃炉となり、OOAはその役目を終え、組織は解消した。

 まとめよう。OOAが単なる反対運動(つまりカウンター勢力)に留まらず、やがて主潮流へと成長し得た背景には、どのような特徴と戦略があったのか。
 まず第一に、時代の趨勢を敏感に察知し、それに敏速に対応しようとする瞬発力があったこと。
 次に、「原子力反対」を掲げるのでなく、「どちらを選ぶにしても、自分たちで決める権利がある」という民主主義、国民主権の原理・原則を貫いたということ。
 キャンペーンを張る場合も、「〜に反対」というスローガンではなく「こっちの考えの方がよりよい」という具体的な代案を常に提示したということ。いずれにしろ、正しい情報をまんべんなく提供しようという姿勢を崩さないということ。この一種のバランス感覚は、敵の懐に分け入っていく大胆さと柔軟性にもつながっているようだ。
 そして何よりも、まだ社会的な影響力もそれほどないと思われる20代の若者に端を発して、それが全国規模の運動へと発展していったのは、とらわれのない自由な気風とチャレンジ精神と粘り強さ、組織の作り方や対外交渉における徹底した合理主義と実証主義に支えられた信念のたまものだろう。
 いかにもバイキングの子孫たち、という気がするが、血統だけとは言い難いこの国民性は、いったいどのように培われたものなのか。

■フォルケホイスコーレの影響力
 デンマークが反原発から再生可能エネルギーへと大きく舵取りする背景には、フォルケホイスコーレ(国民高等学校)の存在があると言われている。フォルケホイスコーレは、N.F.S.グルントヴィの提唱による農民解放運動の一環として、1884年に最初に作られた私立学校で、17歳以上なら誰でも学ぶことができる生涯教育機関だが、詰め込み式の授業と違い、カリキュラムは自由で、現在100校がデンマーク国内にあり、世界中に広がっている。17歳から87歳の生徒も居るそうだ。
 試験を拒否し、資格も与えず、全寮制で教師と学生が共同生活をして教養や社会性を学び、助成金は受けていても国家の干渉を受けない自由な学校だ。
 デンマークではここの出身者が多く、社会の重要なポストに就いていることも多い。
原子力発電の賛否が議論された際にも、フォルケホイスコーレの出身者が賛成側でも反対側でも重要な役割を果たした。

 フォルケホイスコーレの存在は学校教育にも大きな影響を及ぼしている。9〜10年の義務教育期間中もほとんど試験はなく、お互いの話しあいを土台に授業が展開される。自由に何ごとにもチャレンジするデンマーク人の行動力は、こうした背景や教育などから育まれているようだ。
OOAが設立されたその同じ74年の春、デンマーク政府は原発のキャンペーンのために「原子力情報委員会」を設置、デンマーク教育にたずさわるさまざまな有識者が委員として任命され、委員長にはフォルケホイスコーレの全国組織代表が指名された。当時、エネルギー政策を所管していた産業大臣もフォルケホイスコーレの出身であった。委員長は事務局長に、巨大技術や軍事技術に批判的な言論活動を展開していたゲールツェン氏を指名。以降、75年までに6冊のブックレットを出した。ブックレットは賛成と反対を対比的に構成、最後には「代替エネルギー」を出版している。こうした活動はOOAや市民には支持されたが、政府は嫌がり、76年に委員会を閉じてしまう。
 こうした、賛否両論とりまぜての徹底した対話で物事を決めて行こうとする態度も、やはりフォルケホイスコーレの教育方針によって養われたものかもしれない。国民教育の重要性を改めて痛感させられる。

■農民が支えた再生可能エネルギー開発
 アスコウ・ホイスコーレの教師となったポール・ラ・クールは、1891年から風力発電の開発に取り組んだ、デンマーク風力発電研究の元祖である。19世紀末からすでにこうした取り組みがなされていたのは驚きである。
 また、学校の電力供給用として教師と生徒が一緒になって小型風車を製造したフォルケホイスコーレがたくさんある。特に、1978年に2MWのダウヌィンド型風力発電機を開発したTvind国民高等学校は有名だ。現在、世界最大の風力発電機メーカーに成長したVestas社の前身は農耕器具メーカーで、風力発電機開発当初の1977年頃には知識を持つエンジニアが一人もおらず、Tvindの風力発電機を開発した関係者を含め、多くの市民の協力を受けている。
 市民の力で始められたのは、風力発電機だけではない。現在、デンマーク自然エネルギーの二番手として期待されているバイオガスプラントも、ごく普通の農民が始めたのである。何人もの農民が失敗を重ねながら努力したのである。これらの人々はエンジニアだったわけではないが、環境産業に大きな役割を果たしてきた。

 これがもし日本だったらどうだろう。農民は農業をやる者、新しいテクノロジーを開発したりするのは、技術者や学者であって、自分たちが手を出すことではない、というような誤った職業倫理のようなものが暗黙のうちに存在しないだろうか。もちろんこれは農業従事者だけに言えることではなく、あらゆる専門家が他の専門分野に対して越権行為を慎むような風潮があるようにも思う。たとえば、技術者は技術開発だけ、政治家は政治だけ、学生は勉強だけやっていればいい、というような・・・。この風潮は、極端な分業制を助長したり、専門家への過度の信頼や依存へと発展しかねない。ある意味、今回の原発事故もこうした風潮が原因の背景にあるとも言える。デンマークはそうした風潮とは逆の国民性が学校教育の中で養われていたからこそ、OOAのような市民運動が大きな国家レベルの潮流へと成長できたと思えてならない。


※参考:

脱原発運動のシンボルの裏に、デニッシュ・デザインあ
http://denjapaner.seesaa.net/article/199567396.html

デンマークのエコ事情
http://www.eco-g.co.jp/denmark.html

デンマークの環境共生型エネルギーシステムに学ぶ
http://homepage3.nifty.com/n-masako/frs/den0002.htm