東電は損害賠償する必要がない?

 今回の原発事故に関する東電の記者会見などを見ていると、「地震津波が想定外の規模だった」とか「未曾有の天災」といった表現を連発し、「想定内」とか「人災」といった表現は、口が裂けても言わない、というような態度をかたくなに貫いているかに見える。どうやらこれには裏がありそうだ。

 1961年、「原子力損害賠償法(原賠法)」が制定された。原子力発電、原子燃料製造、再処理など原子力施設の運転中に発生した事故により原子力損害を受けた被害者を救済するため、という名目で作られた法律ということになっているが、意外な盲点がある。
この法律によると、原子力災害は、原子力事業者に全面的に損害賠償の責任があるとしているが、唯一、「異常に巨大な天災地変や社会的動乱の場合を除く」としている。
 つまり、今回の原発事故が、マグニチュード9.0の「異常に巨大な天災」によって引き起こされたとするなら、そのような巨大な地震を想定して原発を建設していない以上、東電は損害賠償などの責任をいっさいとる必要がない、ということになり、補償するのはもっぱら国の仕事ということになる。もちろんその財源は、国民からの血税だ。
 もしかりに、今回の災害が「異常に巨大な天災」ではないと判断されたとしよう。その場合は、原子力事業者が無過失・無限の賠償責任を負うことになっているが、実際には原子力事業者が支払うべき賠償措置額には1200億円という上限が設けられている。この賠償措置額を超える原子力損害が発生した場合には、国が原子力事業者に必要な援助を行うことになっている。つまり、どう転んでも東電は1200億円以上は支払わなくていいことになっているのだ。
 しかもこの1200億円にしても、原子力事業者は「原子力損害賠償責任保険」に入っているため、支払うのは保険会社であり、この保険会社も、多額の保険金の支払いに関しては、国の補助を受けられることになっているため、結局のところ支払うのは国であり、その財源は税金ということになる。
 京都大学原子炉実験所助教小出裕章氏は、この法律が事実上の盾となったからこそ、電力会社は安心して必要でも何でもない原子力発電所を次から次へと建設してこられたのだと言う。その目的は、金儲け以外の何物でもない。

 そんな、やりきれない事情ばかりが次々に表に出てくるなかで、唯一希望を見出すことができそうなニュースがあった。以下、NHKのネットニュースより

福島第一原発設置許可 無効求め提訴」
4月9日 0時16分
放射性物質の流出が続く東京電力福島第一原子力発電所について、国の安全審査がずさんだったとして、東京の男性が設置許可の無効を求める訴えを裁判所に起こしました。
福島第一原子力発電所は先月11日の大震災によって水素爆発が起きて施設が損傷し、放射性物質の流出が続いています。この事故を巡って、東京・台東区に住む30歳の男性が「国は、発電所の設置にあたって大地震や大津波を想定せず、安全審査がずさんだった」として、設置許可の無効を求める訴えを東京地方裁判所に起こしました。男性は、将来を担う子どもが安心して暮らすために国の責任を明らかにしたいと話していて、今後、福島県の住民にも裁判への参加を呼びかけたいとしています。今回の原発事故を巡って訴えが起こされたのは初めてで、裁判は原発の設置を巡る国の責任を問うものとして注目されます。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110409/k10015194191000.html

 この提訴の行方が気になるところであるし、福島県民にはどしどし参加してもらいたいところだ。この裁判が実現したら、国の安全審査のずさんさだけでなく、国と東電の癒着、東電が隠蔽していた重大な事実や数値的なデータなど(たとえば、フォードのピント事件のような人命軽視の重大な経営上の決定がなされたときの議事録など)も次々に明るみに出てくるに違いない。さもないと、東電は原賠法を盾として、巧妙な言い逃れをやってのけるだろう。そうならないためには、単に損害賠償を請求するだけでなく、組織の経営体質そのものを徹底的に明るみに出す必要がある。訴訟の争点は補償の額ではなく、むしろ人命軽視の組織体質にしぼるべきだろう。
 この際だから、溜りにたまった社会の「膿」を出すだけ出して、すっきりしたかたちで、震災後の新世界の構築に向かいたいものである。