東電の経営体質を問う

 1981年、経営危機に陥っていたスカンジナビア航空に新しい社長、ヤン・カールソンが就任した。彼はわずか一年で会社を黒字に変え、3年後には『エア・トランスポート・ワールド』誌が選ぶ年間最優秀航空会社にまで引き上げた。
 彼は、社員を奮起させ、経営不振を乗り越えるには、具体的な目標(ヴィジョン)が必要だと考え、当時どこの航空会社も手がけていなかったビジネス客にターゲットを絞った経営を旗印に掲げる。ビジネス客は目的地で会議や商談などが待っているわけであるから、フライト中の過剰なサービスよりも定時の離着陸の方が有難いはずだ。そこでカールソンは、フライトの遅れが当たり前のようになっているその当時の航空事情に反し、定時の発着にこだわった。しかし航空会社としては安全なフライトが第一であるため、「安全が最優先、二番目に定時発着、三番目にサービス」という優先順位を徹底するよう現場に呼びかけた。
この優先順位は、たとえば次のように断行される。ある便が機械的な不具合によって遅れが出そうな場合は、安全確保のため、定時離陸は迷わずあきらめる。一方、機内食が届くのが遅れて、その到着を待っていたのでは定時離陸ができない場合は、迷わず機内食の方をあきらめる。日常的にどのようなトラブルが起きようと、この優先順位が常に頭にある限り、現場の社員は判断に迷うことがない。ビジネス客にとってのこの徹底した利便性の実現により、スカンジナビア航空は絶大な支持を得て成長した。
このあたりの事情は、カールソンの著書「真実の瞬間」(ダイヤモンド社)に詳しい。

 ついでに、こんな例もある。アメリカのJohnson& Johnson (J&J)がまだ中堅の会社だった頃、日本のグリコ事件のような異物混入の脅迫が舞い込んだ。J&Jは即座にTVや新聞に広告を出し、対象製品の全面回収を図った。脅迫があったエリアに出荷された製品だけを回収対象にしてもよかったのだろうが、J&Jは対象を全米にまで広げたのである。これが社会的信用の獲得につながり、これ以降一気に売り上げが伸び、一流メーカーに成長したというのだ。
 このようなトラブルが起きたときの対処の仕方に、その組織がどんな優先順位で運営されているかが如実にあらわれる。

まったく正反対と思える例を示そう。
アメリカのフォード社は、1970年、当時熾烈を極めていたコンパクトカー市場への参入に遅れをとるまいと、新車「ピント」の開発に踏み切ったが、開発期間を短縮し、コストを削減する目的で、通常43ヶ月を要する新車開発期間を25ヶ月で終わらせようとした。ところが、開発段階でデザインを重視した結果、ガソリンタンクとバンパーが近接した構造となり、バンパーの強度不足により追突事故に非常に脆弱である欠陥が発覚した。しかし、フォード社はこの欠陥による年間の事故発生件数を試算し、それに支払うことになる賠償金額と欠陥対策にかかるコストとを比較し、賠償金を支払う方が安価であると判断して、そのまま市場に出した。
1972年、ハイウェイを走行中のピントがエンストを起こし、約50km/hで走行していた後続車に追突されて炎上し、運転していた男性が死亡、同乗者が大火傷を負う事故が発生した。この事故が損害賠償裁判となり、フォード社の元社員らが欠陥を知りながら開発を進めた事実を証言し、対コスト比計算の事実も発覚した。裁判の結果、フォード社は多額の賠償金の支払いを課せられ、大きな経済的打撃を受け、さらに製品の信頼性や会社の信用も失墜してしまうこととなった。フォード社は欠陥対策としてガソリンタンクを車軸上に配置変更し、バンパーとガソリンタンクの強度向上をはかった。

さて、東電という大企業は、体質としてスカンジナビア航空やJ&Jに近いか、それともフォード寄りか?
以下の内容は、週刊朝日の記事を参考にした。

■2002年9月20日号配信より
 当時、鹿児島大学非常勤講師だった菊地洋一氏は、今回問題になっているGEIIの前身のGETSCOの元技術者で、東海第二(78年運転開始)と福島第一の6号機(同79年)の心臓部分である第一格納容器内の建設に深くかかわっている。GETSCOは沸騰水型炉を開発したGEの子会社で、GEがこの二つの原子炉を受注したのだ。
 菊地氏の当時の立場は企画工程管理者といい、すべての工事の流れを把握して工程のスケジュールを作成する電力会社と下請けとの調整役だったという。現場では、自分の作業内容しか知り得ない技術者がほとんどだが、第一格納容器の隅々までをつぶさに知る数少ない人物の一人だ。
 「建設中に工事の不具合はいくらでも出てくる。数えたらキリがない。当然のことですが、ちゃんと直すものもあります。でも信じられないことでしょうが、工期や工事費の都合で、メーカーや電力会社が判断して直さないこともあるんです。私が経験した中では、福島第一の6号機に今も心配なことがある。じつは、第一格納容器内のほとんどの配管が欠陥なのです。」
 主要な配管の溶接部分についてはガンマ線検査があるため、溶接部分近くに穴があいており、検査が終わると、外からその穴にガンマプラグという栓をはめていくのだそうだ。ところが6号機の第一格納容器内では、プラグの先が配管の内側へ飛び出してしまっている。仕様書では「誤差プラスマイナス0ミリ」となっているのに、最大で18ミリというものまであった。原因は、度重なる設計変更だ。当初の計画では肉厚の配管を使う予定が、いつのまにか薄い配管になってしまっていた。担当外だった菊地氏が気づいてすぐに担当部署に相談したが、最終的には配管工事を請け負った業者の判断に一任され、結局、直されることはなかった。
 「確かに配管を直したら、プラグの発注から始まり検査や通産省立ち会いの耐圧試験も含め、半年や1年は工事が延びたと思う。工事が1日延びれば、東電側に1億円の罰金を支払わなければならないというきまりもあった。GE側は業者の判断によっては違約金の支払いも覚悟していたが、最終的には業者側の直さないという判断を尊重した形になった。でもこの配管を放置しておけば、流れる流体がプラグの突起物のためにスムーズに流れなくなり乱流が生じ、配管の一部が徐々に削られていき、将来に破断する可能性だってある。それが原因で、何十年後かにドカンといくかもしれないのです」

 福島第二原発の3号機のポンプ事故(89年)後、菊地氏は、6号機の配管も、「全部めちゃくちゃだから直すように」と東電本社に直訴した。東電からは一部主要な配管は替えたものの「ほかはちゃんと見ているから、安全です」という答えが返ってきたという。
 「(工事をチェックする立場の政府も)まったくあてになりませんね。通産省の検査のときに、養蚕が専門の農水省出身の検査官が来たという話も聞いたことがあるほどです。現場では国の検査に間に合わなくて、ダミー部品をつけておいて、検査が終わってから、正規の部品に取り換えるということもやった。もちろん、検査官は気がつきませんよ」
 東海第二の試運転を前に国の検査があった。だがその前日、電気系統がトラブルを起こし、使えなくなってしまったという。試験当日は国の検査官を前に、作業員が機械の前で手旗信号で合図し、電気が通って機械が作動しているように見せかけた。それでもしっかりと「合格」をいただいたというのだ。

 現在、科学ジャーナリスト田中三彦氏が、日立製作所の関連会社であるバブコック日立の設計技師だった74年、同社は日立製作所が受注した福島第一原発4号機(78年運転開始)の原子炉圧力容器を製造していたが、製造の最終過程でトラブルが起こった。
高さ約21メートル、直径約6メートルの円筒形で厚さ約14センチの合金鋼製の圧力容器の断面が、真円にならず、基準を超えてゆがんだ形になってしまった。そこで、容器内部に3本の大型ジャッキを入れ、610度の炉の中に3時間入れてゆがみを直したというのだ。
田中氏は当時、原子力設計部門から別部門に異動していたが、急遽呼び戻され、どれだけの時間をかけて、何度の熱処理をすべきか解析作業を担当させられた。作業は国にも東電側にも秘密裏で行われ、ゆがみを直した後、東電に納入されたのだという。
 田中氏はその後退職し、88年に都内で開かれた原発シンポジウムで、上記の事情を告発した。しかし、告発からわずか数日後、東電と日立製作所、そして通産省までもが「問題ない処置だった」と口をそろえて"安全宣言"を出したという。
 田中氏はこの経過を90年に出版した『原発はなぜ危険か―元設計技師の証言―』(岩波新書)に詳細にまとめている。田中氏はこう話す。
 「根本的な問題は、電力業界の体質そのものです。彼らには罪の意識はまったくなく、逆に合理的な判断の上に成り立っていると思っている。それは給電の計画変更などのコストの問題、同じ構造の原子炉を持つほかの電力会社への影響など、結局は電力会社サイドの勝手な都合で決められている。国も『あうんの呼吸』でそれを見守ってきた。国も電力会社も原発が壊れるまで『安全だ』と言うのでしょう。いつかはわからないが、大事故は必ず起きる。早急に脱原発の方向に切り替えるべきだが、その前に、せめて国の技術的なレベルを上げ、原発に対する管理能力をきちんとすべきです」

■2011年04月01日号配信より
 米CNNが、現地時間で3月15日、米国を代表する原子炉メーカーであるゼネラル・エレクトリック(GE)の元エンジニア、デール・ブライデンボー氏のインタビューを放送した。
ブライデンボー氏は福島第一原発の1〜5号機で使われているマークⅠ型原子炉の原設計をした人物だった。1号機の建造が始まった1960年代、日本はまだ自力で商業用原子炉を造っていなかったため、GEが造った。このあと2号機はGEと東芝が共同で建設し、3、4号機になってようやく東芝日立製作所が主体で造った。炉心損傷を起こしている1〜3号機はいずれも、GEの設計を基にしたものなのだ。
 そしてブライデンボー氏は在職中から、このマークⅠの安全性に疑念を抱き、75年に同僚2人とともにGEを退職すると、米原子力規制委員会と共同戦線を張ってマークⅠの製造中止を訴えてきた。
「マークIは大規模事故に耐えうるようには設計されていません。冷却システムがギリギリの容量で設計されているため、電力供給が途絶えて冷却システムが止まると、爆発を起こす危険性がある。使用済み核燃料の貯蔵プールも最新型のように自然に冷やされるタイプではないため、電気が切れるとすぐに温度が上がってしまう。」
68年から77年まで日立製作所の関連会社「バブコック日立」に勤務し、福島第一原発4号機の圧力容器などの設計に関わった田中三彦氏はこう話している。
「マークⅠが欠陥を抱えているとの米国での指摘は、当時から知られていました。格納容器全体の容積が小さいため、炉心部を冷却できなくなって、圧力容器内の蒸気が格納容器に抜けると格納容器がすぐに蒸気でパンパンになってしまう。最悪の場合は格納容器が破裂してしまう心配がありました。」
圧力抑制プールを含めたマークⅠの格納容器の容量は、新型のマークⅢの4分の1程度しかない。
「今回、津波による電源喪失などで炉心冷却システムがすべて動かなくなったことで、格納容器が破裂しそうになりました。1号機の格納容器が8気圧になったのがそれを物語っています。運転中の格納容器は中の気体が外へ出ないように1気圧よりもすこし低くしており、設計上も約4気圧までしか耐えられないので、ものすごく大変な事態でした」(田中氏)
 このため東京電力は、格納容器にある「ガス放出弁」を開けて、容器内の圧力を下げざるを得なくなった。そしてこの弁こそ、ブライデンボー氏が会社人生をかけてまで求めたマークⅠの安全対策の一つだった。
「80年代後半、私の訴えの一部が認められ、圧力を逃すガス放出弁を取り付けることが義務づけられました」(ブライデンボー氏)
 マークⅠの欠点はこれだけではなかった。再び、田中氏が証言する。
「圧力容器に付属する再循環ポンプは、重さが数十トンもあるのに支えが不安定で、大地震時に再循環系の配管が壊れないかがよく問題になってきました。もし壊れると、ここから冷却材が格納容器へ噴き出し、『冷却材喪失事故』という悪夢になってしまうからです」
 再循環ポンプは、原子炉内に発生する気泡を取り除くためのもの。最新型では圧力容器内にあるが、福島原発のような古い型では圧力容器の外にある。
「格納容器の圧力の上がり方、水素爆発の起こり方などから推測すると、とくに1、3号機では今回、冷却材喪失事故が起きたように思えます」(田中氏)

下請け会社の話だと、事故発生当初、原子炉への海水注入を迫られた際に、東電側はこう言い放ったという。
「この原発にどれだけカネを使っているのか、知っているのか。原発がなくなれば、お前らの仕事もなくなるぞ。海水を入れて廃炉にするなんて、とんでもない」
 この、ものの言い方は、雪印事件のときに、ラベル改竄を指摘した社員に対して言った上司の言葉を思い出させる。しかし原発を扱う電力会社の社会的影響の大きさを考えるなら、ラベルの改竄どころではない。にもかかわらず、企業の体質自体は何ら変わりがない。

 東電が起こした今回の原発事故は、構造的にはフォードのピント事件とよく似ている。これから明らかになるかもしれない(明らかにならなければならない)が、原発の欠陥が発覚したとき、もし東電内部で、その対策にかかるコストや時間と、被害者に支払う賠償金との比較計算などがなされ、その結果欠陥を放置した(いわんや、事実を隠蔽した)といったことが証明されたとしたら、由々しき事態だ。
 ピント事件では、class action(集団訴訟)が起きて、フォードが敗訴した。今回の場合、原発事故で大なり小なり被害を受けたすべての人が原告となり、国と東電を相手に集団訴訟を起こしてもいいぐらいだ。そこまでしないと、事実は明るみに出ないかもしれない。
 少なくとも、世界に誇れる技術力とそれを有効に運用するに足る人材とを併せ持ちながら、組織の運営において極めてお役所的であり官僚主義的であるため(いわば、幼稚園レベルの組織文化しか持っていないため)、そのことが原因で重大な事故が起き(これからも起き続け)、人の命が奪われたり、あるいはいまだに脅かされ続けていたりするということを、私たちは肝に銘じておかなければならない。