避難所素描

60代男性。福島第一原発の20キロ圏内で畜産農業を営んでいた。放射能漏れによる避難勧告が出されたとき、あくまで一時退避で、すぐに戻れると思っていた。自分の周りの人たちは、だいたいそう思っていたはずだ。そこで、鶏舎は開けておいたが、牛舎の扉は閉めたままにした。鶏はもしかしたら、山に逃げて生き延びたかもしれないが、牛は餌や水がないと2・3日ももたないので、もうダメだろう。故里へは二度と戻れないだろう。

20代女性。どんな形かは分からなかったが、原発事故はいつか必ず起きると覚悟していた。福島第一原発も第二原発も、隣り合う二つの自治体にまたがるように建てられている。両方の自治体が公平に潤うようにとの配慮からだ。同級生の半数の家庭は、何らかの形で原発に従事したり恩恵を受けたりしていたはず。だから原発に反対するという風潮はなかった。むしろ、自分たちは東京の人たちに電力を供給しているのだという誇りを持とう、という風潮さえあった。バイト先の事務所からは、「割のいい仕事をしたかったら、原発に行けば」と言われた。それが大方の風潮だった。自分は敷地内の草むしりをするのもイヤだった。

40代男性。「原発は危険である」と叫び続けてきた。しかしほとんどの人は耳を貸そうとはしなかった。むしろ反対運動をする者は共同体の中ではつまはじきにされ、隅に追いやられていた。今、同じ避難所にいる人たちは、かつての原発推進・賛成派だ。いまや彼らが住むところを追われ、隅に追いやられている立場だ。べつにいい気味だとも思わないし、勝ち名乗りを挙げる気もないが、複雑な心境だ。