「復旧」「復興」「修復」に「待った!」をかける

 今、私がいちばん危機感を抱いている言葉がある。それは「復旧」とか「復興」とか「修復」という言葉だ。おそらくこれらは今、日に何度も人々の口をついて出ている言葉だろう。しかし私はあえてこの言葉に「待った!」と言いたい。
 「復」という字のつくこれらの言葉には、「元通りに戻す」「元あった状態を再現する」といったニュアンスが込められていると思うが、今の私たちに求められているのは、果たしてそれだろうか?
 私は、今回の大惨事を、日本人がこれまでの歴史の中で経験してきた大きな価値観の転換点(たとえば、明治維新とか先の大戦での敗戦など)に匹敵するほどの、国家レベルのターニングポイントだと認識している。思えば、敗戦後の日本の復興は、昭和天皇玉音放送から始まったはずだ。「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え・・・」という例のラジオ放送である。今回の被災で、平成天皇が放送したお見舞いと励ましのヴィデオを観て、あの玉音放送を思い出したのは、どうやら私だけではないようだ。

この忍び難く耐え難いポイントを超えたなら、もはやそれまでの価値観や世界観は一切通用せず、新しいものにすっかり入れ替わり、二度と再び従来のものには戻れない、とそれくらい「不可逆的」な転換点を、私たちは今迎えているのだと、その点に関しても、おそらく多くの人に共感していただけるのではないかと思っている。ただし今回は、先の転換点とは決定的に異なり、「自爆」からのスタートであることを、私たちは肝に銘じなければならないだろう。
そんななか、「復旧」とか「復興」とか「修復」といった概念は、こうした流れに逆行し、ともすると従来の状態に私たちを引き戻そうとする動きにもなりかねない。そうなったら、私たちは同じ過ちを再び繰り返すことになるだろう。それでいいのか? この大災害で犠牲になった人々の魂は、それを望むだろうか?

東京電力が35年前に、原発の安全性をアピールする目的で作ったパンフレットには、「何十年後の未来人は、『1970年代の人類は、原子力に対して、なぜあんなにビクビクしたのだろう』と、首をかしげるかもしれません」という一文があったという。私たちは、二度と再びこのような異臭芬々たる「レトリック」を許してはならない。
 私たちは今、まっさらな紙を渡されたのだと想像してみよう。その紙の上に、まったく新しい未来の青写真を描くのだ。過去の轍は二度と踏まないという強い決意のもとにである。だから私たちは、「復旧」とか「復興」とか「修復」といった言葉ではなく、「刷新」とか「新規まき直し」といった言葉を使うべきだろう。
エネルギーの創出や利用のあり方はもとより、政治や経済、はては教育から、芸術表現や文学表現に至るまで、あらゆる分野に「刷新」が求められている。ちょっと大袈裟に言えば、今までVIPだとかエリートだとかリーダーだとかと言われていた人が、犯罪者として刑に服し、今まで犯罪者として投獄されていた人が出てきて新しいリーダーになるといった、そのぐらいの大きな変化が起こっても不思議ではないと考えよう。
そしてこの新しい青写真の最初のページには、次のように書こうではないか。

「何十年後の未来人は、『2010年代の人類は、原子力という、およそ制御不能な巨大なエネルギーに対して、なぜあんなに安全に制御可能だと信じ込んでいたのだろう』と、首をかしげるかもしれません」