放射能の数値ばかりを追いかけてはならない

 連日の関係者記者会見や報道で、大気中や水道水などの放射能濃度が発表されている。もちろん命に関わることであるから、どうしても注目がそこに偏るし、乳児・幼児を抱える母親などは気が気ではないだろう。それはよくわかる。しかし、数値ばかりを追いかけていると、物事の本質を見過ごしてしまう。

 たとえば、あなたがテニスの試合を観戦していたとする。ボールの行方をいっさい追わずに、スコアボードの得点だけを追いかけていたら、試合を観戦したことになるだろうか。
報道を通し、数値の発表だけを受けている現在の私たちは、スコアボードだけを見せられて、テニスの試合の状況判断をしろと言われているようなものである。これは、国や原子力関係機関やマスコミだけの責任ではない。

 関係者から、本日の放射能汚染の状況が、具体的な数値として発表される。その数値が意味するところを報道関係者が質問する。つまり、結局のところ安全範囲内なのか、それともすでに危険区域なのか。今は何ら健康被害がなかったにしろ、将来的にはどうなのか・・・etc。
 関係者は、そうした数値の意味するところの説明や対応に追われ、それだけで会見が終わってしまう。そんなことが連日続く。どこまでいっても、安心は得られない。先行きはいっこうに見えない。逆に不安が募るばかりだ。

 あたりまえの話である。肝心なことを聞かされていないし、私たちも聞こうとしていないからだ。今このとき、本当に知るべきことは、福島原発の周りで、有効な「ブラッドシフト」が着実に起こっているかどうかだ。別の言い方をすれば、事態を収束させるのに、有効な体制が確実にとられているか、ということである。今、そこのところが極めて不透明なのだ。私たちには、曇りガラスの向こうで事態が進行しているように、薄ぼんやりとしか見えていない、ということが問題なのだ。

 やや不謹慎かもしれないが、事態をわかりやすく図式化するために、先のテニスの試合の例を、もう一度引き合いに出してみよう。その試合の相手は福島原発、対するは事態を収束させようとしている現場の作業員だとする。もちろん私たちは、何としても作業員側に勝利してもらわなければならない。作業員があるボールを配すると、原発からあるボールが打ち返されてくる。それに応じて、またこちらからボールを打ち返す・・・その繰り返しで試合が進行する。それがこちらサイドに有利な展開で進んでいるかを、私たち一般の観戦者たちは、一喜一憂しながら観ているわけだ。そこで、スコアボードだけを見せられていたのでは、もちろん試合の進捗はさっぱりわからない。勝てるのかどうか、先の見通しはまるで立たないし、不安ばかりが募る。

そこで必要な情報は、最前線の選手たちはどんな選手なのか、どんな技術や専門分野を持ち、どんな訓練を積んできて、試合中にもどんな有効な支援を受けられているのか。どんなコーチ陣が彼らをがっちりサポートしているのか。どのような作戦を立て、その作戦はどの程度有効に作用しているのか。どのような作戦の中から、なぜどのような理由で現在の作戦が採用されたのか。そのコーチ陣は、その背景にある支援組織(国の強化委員会など)からどのように支えられているのか。そうした全体の体制がきちんと発表され、その上で試合の途中経過である数値が発表されてこそ、私たちは「ああ、これなら人事を尽くしていると言える」あるいは「ここをもっとこうすべきだ、ああすべきだ」と、はじめて全体を評価し判断することができる。つまり、そこでの評価基準は「これならブラッドシフトが起きやすい体制である」と言えるかどうかだ。
これが透明になってこそはじめて、私たちはただスタンドで観戦しながら応援のエールを送るだけでなく、少しでも試合を有利に進めるために自分たちに何ができるかを判断し、それを実行に移すことができるのだ。

 ところが、連日報道されている内容は、スコアボードの数値か、あるいはせいぜい最前線の作業員がどのような「汗と涙」を流しているか、それに対して、相手がいかに手ごわいか、といったことだけであるように思う。これで、いったい何をどう判断しろというのだろうか。
 IAEAやフランスの原子力の専門家(特に放射能除去技術に関する専門家)がすでに来日していて、この事態の収束に協力していると聞く。それは有難い限りなのだが、彼らが現在の体制の中で、どのような位置づけで、どのように組み込まれているのか、といった情報も伝わっているのか怪しい。
 報道陣にも、発表された数値の意味を問いただす前に、そうした体制そのものについて、もっと突っ込んで質問してもらいたいものだ。