自治体よ、原発依存から自立せよ!

 あなたは、名うてのギャンブラーだったとしよう。あなたは巨費を投じてきわめてリスクの高い賭けに出た。ハイリスク=ハイリターンの原則にてらして、無尽蔵のリターンが期待できると踏んだからだ。ところが「想定外」の事態が起こり、膨大なツケを支払わされるハメになった。これ以上同じ賭けを同じやり方で続ければ、損失はさらに広がり、収拾がつかなくなる可能性が高い。投資した費用が戻ってこないのは痛いし、それ以上の損失補填を強いられることも痛恨の極みである。
 そこであなたはまず考える。今回これだけの損失を生んだのは、リスク管理に問題があったからだろう。そこであなたは、この賭けのリスク管理にどのような問題点があり、「想定外」の事態が起きた原因は何だったのかを徹底的に調査し、さらにリスク管理を強化し、この危険な賭けを継続させるにはどうしたらいいか・・・。
 しかしあなたがまともなギャンブラーだったら、どれほど大きな損失補填を強いられようが(いや、強いられたからこそ)早々にその賭けから撤退し、二度と再びこの種の賭けに手を染めることはしないはずだ。それがリスク管理の定石というものだ。まさに「君子、危うきに近寄らず」である。ところが、あなたはよほど執念深いか、あるいはよほどの酔狂か、同じ賭けをさらに続けたいと考えた。もちろんこの時点でまともなギャンブラーとしては失格である。あなたはむしろ狂気に近づく。
 そうまでして継続したいのは、どれほどの損失を出そうが、それまでにその賭けから得た利益があまりにも膨大であり、さらなる増資やリスクのかけ方によっては、継続した収益が見込めると踏んだからだ。
 客観的な目からは、あなたはその危険な賭けにどっぷり依存する体質になってしまっていると見えるだろう。ここまでくると、アルコール依存や薬物依存とさほど変わりがない。
 そこであなたは、狂気した頭で考える。二度と大きな損失を出さないためには、考えられる限り最高レベルのリスク管理の方策をとるべきだ。しかし、果たしてそんな方策があるのだろうか。もしそんな方策があるとしたら、「想定外」の事態が再び起こったときに、被害を最低限にとどめる工夫ぐらいのものではないのか。あるいは、他でやられているリスク管理より一歩先を行っていれば、最高レベルと言えるのではないか。
 ここでは、「想定外」の事態を起こさない方策でも、被害を出さない方策でもないことに留意していただきたい。さらにいえば、ここでいう「被害」とは、自分に直接降りかかってこないもの(いわゆる二次被害、三次被害)をも勘定に入れているかどうかは定かでない、とういう点にも留意していただきたい。

 去る6日、経済産業省は今後のエネルギー政策に関する内部文書を明らかにした。それによると、2030年〜50年に向けた長期的なエネルギー政策の3本柱として、「世界最高レベルの安全性に支えられた原子力」、太陽光発電などの再生可能エネルギーの拡大、ライフスタイルや産業構造の改革による省エネルギーの実現、の3つが挙がっている。
 当たり前のことだが、ここでまず念を押しておかなければならないのは、再生可能エネルギーの拡大や省エネの実現は、原子力の不足を補う(あるいは将来それに取って替わる)ものではあっても、原子力の安全性を支えるものではない、ということだ。どんな代替策をもってきても、原子力が危険であることに変わりはない。
 この文書では、福島原発の事故で「原子力の安全確保に大きな疑問符」がついたとの判断から、「原因の徹底究明と安全規制の抜本見直しを進め、将来のエネルギーとしての適格性を判断する」としている。適格か不適格かを、これから判断するということのようだ。つまり、経済産業省によれば、どうやら今回の福島原発の事故は、原子力が将来のエネルギーとして不適格であると判断するに足る事態ではなかった、という認識らしい。
 菅総理は、浜岡原発の全面停止要請をするときに、「国民の安全を第一に考えて」という理由づけをしていたはずだが、総理と経済産業省との間に、原子力行政あるいは国民の安全確保に関する認識のズレがあるのだろうか?
 菅総理は、14基の原発の新増設を含めた今後のエネルギー基本政策をいったん白紙撤回し、一から議論し直すとしているのに対し、経済産業省は、この文書によって従来の原発重視を堅持する方針を打ち出している、との見方もある。危険を排除するのではなく、あくまで危険を飼い馴らしたいらしい。しかし、この「原子力」という猛獣、果たして飼い馴らせるのだろうか。

 経済産業省発信のこの内部文書で、見過ごしてならないのは「世界最高レベルの安全性」という点である。ここは本来なら、いかなる事態にも耐えうる「絶対的な安全性」を謳うべきところだ。ところが、安全性の指標として「世界最高」という具合に、いわば他との比較をもってきた時点で、原子力に関して絶対的な安全性など謳えるはずがない、という認識を露呈してしまっている、とも言える。いわば、「絶対的」と言うべきところを「世界最高レベル」へとトーンダウンさせている、といったところだ。
 もし仮に、安全性の確保が世界最高レベルだったとしても、それで事故が起こらない保証には、これっぽっちもなっていない。世界最高レベルの安全対策を講じていながら事故が起きたら、「世界最高レベルの安全性をもってしても、事故は防げなかった」ということが証明されるだけの話である。安全性をどのように高めようが、原子力開発は、あまりにも危険な賭けであることに変わりはないのだ。いかなる理由があるにせよ、そんな危険な賭けに手を出すべきだろうか?
 それとも、よしんば「想定外」の事態が起こっても、被害を最低限にとどめる対策を講じておきさえすれば、安全性を確保したことになる、という認識だろうか。いわば事故が起きないことを「保証」するのではなく、事故が起きたときの「補償」はちゃんとしますよ、ということか。
 少なくとも、一方で、原子力という危険な賭けを継続することで、相変わらず国民の不安を煽り、さらに省エネの枷を嵌めることで、国民に有形無形の負担を二重に強いるようなやり方は、国民の安全を第一に考えたことにはならないし、エネルギー行政にいかなる柱を立てたことにもならない。
 ついでに申し上げるなら、節電や省エネは、危険な原子力から足を洗い、再生可能エネルギーを軌道に乗せるまでの間の暫定的な「手段」として、政府が国民にお伺いを立てるなら話はわかるが(もちろん国民は、国に言われるまでもなく、自分たちのこととして節電や省エネに励むはずだ)、政策の柱には到底なり得ない。

 それにしても、菅総理浜岡原発停止要請を受けての御前崎市の市長以下幹部職員の狼狽ぶりは、原発関連交付金という、危険すぎる賭けの「おこぼれ」に自治体の運営を依存させてきた依存症患者の慌てふためきようだ。本来ならここは「ついに来るべき時が来たか」と腹をくくって然るべき場面だが、「国の判断でトラブルのない原発を止めるんだから交付金は百パーセント穴埋めしてもらうのが筋だ」と厚顔ぶりを発揮して憚らないのは、原発を地元に誘致した時点ですでに健全な自治体運営を放棄していたことに気づいていない重度な依存ぶりを垣間見せているにすぎない。
 この際だから、御前崎市に限らず、原発政策のおこぼれにぶら下がるような、およそ健全とは言い難い運営に甘んじてきた地方自治体は、「原発依存症」からの立ち直りを真剣に図るべきだ。